第4回 水戸光圀に招かれた朱舜水
文・写真=須賀努
水戸駅前 黄門像
水戸光圀といえば、日本人ならドラマ『水戸黄門』でおなじみであり、助さん格さんをお供に連れて、日本全国を周遊した人物として描かれている。だがそれはあくまでドラマ上の設定であり、実際の光圀は水戸藩2代藩主。しかし黄門様なら、と思わせるようなエピソードを数々残しており、今回は中国人を招いて水戸学の基礎を築いた話を取り上げたい。
東京大学内 朱舜水記念碑
昔日本に留学した中国人から「東京大学に朱舜水の記念碑がある」と聞いたので、行ってみる。なぜか農学部のところにひっそりとあったが、碑には「朱舜水先生終焉之地」と刻まれていた。舜水が亡くなったのは水戸藩が建てた別邸で、説明板を見ると「舜水が暮らした水戸藩中屋敷は今の東大農学部の東南にあったが、記念碑はここに移設された」とある。
小石川後楽園 円月橋
水戸藩上屋敷として有名なのが、小石川後楽園。ここの日本庭園は都会の騒がしさから隔絶された静かな空間。その中には舜水の指導で造られたという円月橋が、見事なアーチを描いて保存されており、ふっと心が休まる。輝きを放つ唐門には「後楽園」の文字が見られ、この名称は舜水が命名したと聞く。
小石川後楽園 後楽園の文字
朱舜水は明代の1600年、今の浙江省余姚の士大夫の家に生まれ、秀才の誉れ高かった。余姚の四賢人として、地元では王陽明と並び称されているという。だが明朝が滅びると、復明運動に心血を注ぎ、舟山列島を根拠地として支援を求めるため、ベトナムに向かった他、なんと7回も日本にやって来たとは知らなかった。実は彼はあの鄭成功の船に乗り、日本へ救援を求める日本請援使として派遣されていた。そして7回目(59年)に日本定住(亡命)を決めたのだが、長崎の大火に遭うなど、その滞在は決して楽なものではなかったようだ。
水戸光圀がいかにして朱舜水を知ったかは良く分からないが、64年に配下の儒者を長崎まで派遣して江戸に迎え、師の礼をもって厚く遇した。朱舜水は82年に江戸水戸屋敷で没するまで、基本的に江戸で過ごしている。外国人でありながら水戸藩主累代の墓所である瑞龍山(茨城県常陸太田市)に葬られたのは、どれだけ敬意を持って迎えられていたか分かるというもの。親子ほども年が離れた2人の師弟関係はどのようなものであったろう。
水戸 徳川家墓所
ちなみにその水戸徳川家墓所まで行ってみると、田畑の多い田舎の小高い場所にひっそり墓苑があった。現在は開放されておらず、外から門を眺めるにとどまったが、案内板には初代徳川頼房(家康末男)、2代光圀以降の歴代藩主の中にポツンと舜水の名が刻まれていた。
水戸舜水祠堂跡
水戸市内に、舜水の像が建っている場所がある。ここに舜水が祭られていた舜水祠堂があったという。舜水死去の翌年、光圀によって駒込屋敷内に造られたが、その後火災で消失。第3代藩主{つなえだ}綱條により水戸に建て直されたという。その後、水戸学の人々によって受け継がれ、定期的に講義なども行われた場所となり、幕末の烈公({なりあき}斉昭)の藩校弘道館につながっていった。
水戸城 徳川斉昭像
なお、舜水が光圀に仕えた動機の中には、当然明朝再興への支援が含まれていただろうが、それは結局幻に終わり、日本で永眠することとなった。光圀が舜水から受けた影響は大きく、水戸学の基礎となり、『大日本史』の編さん事業などにそれが表れている。そしてそれが江戸末期、尊王攘夷につながっていくとなれば、舜水の日本史に与えた影響の大きさが分かるというものだ。
水戸 彰考館跡
ちなみに『大日本史』が編さんされた彰考館は初め駒込屋敷にあったが、舜水の死後、そして光圀の隠居後、水戸城内に移される。編さん事業には水戸藩の全精力がつぎ込まれ、なんと明治時代までの長きにわたって続いたというが、これも舜水の影響力だろうか。
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