第4回 水戸光圀に招かれた朱舜水

2023-04-20 15:39:00

 

文・写真=須賀努 

 

  

水戸駅前 黄門像 

 

水戸光圀といえば、日本人ならドラマ『水戸黄門』でおなじみであり、助さん格さんをお供に連れて、日本全国を周遊した人物として描かれている。だがそれはあくまでドラマ上の設定であり、実際の光圀は水戸藩代藩主。しかし黄門様なら、と思わせるようなエピソードを数々残しており、今回は中国人を招いて水戸学の基礎を築いた話を取り上げたい。 

 


東京大学内 朱舜水記念碑 

 

 

昔日本に留学した中国人から東京大学に朱水の記念碑があると聞いたので、行ってみる。なぜか農学部のところにひっそりとあったが、碑には水先生終焉之地と刻まれていた。水が亡くなったのは水戸藩が建てた別邸で、説明を見ると「舜水が暮らした水戸藩中屋敷は今の東大農学部の東南にあったが、記念碑はここに移設されたとある。 

 

小石川後楽園 円月橋 

  

水戸藩上屋敷として有名なのが、小石川後楽園。ここの日本庭園は都会の騒がしさから隔絶された静かな空間。その中には水の指導でられたという円月橋が、見事なアーチを描いて保存されており、ふっとが休まる。輝きを放つ唐門には後楽園の文字が見られ、この名称は水が命名したと聞く。

 

 

小石川後楽園 後楽園の文字 

  

水は明代の1600年、今の浙江省余の士大夫の家に生まれ、秀才の誉れ高かった。余の四賢人として、地元では王陽明と並び称されているという。だが明朝が滅びると、復明運動に心血を注ぎ、舟山列島を根拠地として支援を求めるため、ベトナムに向かった他、なんと7回も日本にやって来たとは知らなかった。実は彼はあの鄭成功の船に乗り、日本へ救援を求める日本請援使として派遣されていた。そして7回目(59年)に日本定住(亡命)を決めたのだが、長崎の大火に遭うなど、その滞在は決して楽なものではなかったようだ。 

  

水戸光圀がいかにして朱水を知ったかは良く分からないが、64年に配下の儒者を長崎まで派遣して江戸に迎え、師の礼をもって厚く遇した。82年に江戸水戸屋敷で没するまで、基本的に江戸で過ごしている。外国人でありながら水戸藩主累代の墓所である瑞龍山(茨城県常陸太田市)に葬られたのは、どれだけ敬意を持って迎えられていた分かるというもの。親子ほども年が離れた人の師弟関係はどのようなものであったろう。 

 

水戸 徳川家墓所 

  

ちなみにその水戸徳川家墓所まで行ってみると、田畑の多い田舎の小高い場所にひっそり墓苑があった。現在は開放されておらず、外から門を眺めるにとどまったが、案内板には初代徳川頼房(家康末男)、代光圀以降の歴代藩主の中にポツンと水の名が刻まれていた。 

 


水戸舜水祠堂跡 

 

水戸市内に、水の像が建っている場所がある。ここに水がられていた水祠堂があったという。水死去の翌年光圀によって駒込屋敷内に造られたが、その後火災で消失。第代藩主{つなえだ}綱條により水戸に建て直されたという。その後水戸学の人々によって受け継がれ、定期的に講義なども行われた場所となり、幕末の烈公({なりあき}斉昭)の藩校弘道館につながっていった。 

 

水戸城 徳川斉昭像 

  

なお、舜水が光圀に仕えた動機の中には、当然明朝再興への支援が含まれていただろうが、それは結局幻に終わり、日本で永眠することとなった。光圀が水から受けた影響は大きく、水戸学の基礎となり、『大日本史』の編さん事業などにそれが表れている。そしてそれが江戸末期、尊王攘夷につながっていくとなれば、水の日本史に与えた影響の大きさが分かるというものだ。 

 

水戸 彰考館跡 

 

ちなみに大日本史が編さんされた彰考館は初め駒込屋敷にあったが、水の死後、そして光圀の隠居後、水戸城内に移される。編さん事業には水戸藩の全精力がつぎ込まれ、なんと明治時代までの長きにわたって続いたというが、これも水の影響力だろうか。 

  

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