最終回 横浜 孫文を支えた馮鏡如と温炳臣

2023-07-03 09:50:00

                       須賀努=文・写真 

 

 

横浜中華街の東西南北に4基ある牌楼(守護神)の一つ「朝門」 

  

いつも多くの人でにぎわう横浜中華街。1859年の横浜開港に伴い、横浜新田として現在の中華街一帯の造成が行われたと説明されている(横浜中華街ホームページなど)。現在の関帝廟の並び、山下町公園となっている辺りには、68年頃に劇場と料理屋を兼ねた会芳楼がオープン。83年にはその地に清国領事館が置かれ、辛亥革命により中華民国総領事館となったが、1923年の関東大震災により総領事館は倒壊したとある。

 

現在の山下町公園 

 

横浜中華街の歴史は、開港による外国商会の進出、それに伴ってやってきた中国人の仲介商人、いわゆる買弁にたどり着くであろう。基本的には、広州で外国商人に雇われていた者が横浜にやってきたというが、その詳細な歴史は分かっていない。今回は後に孫文を支援した二人の華人を取り上げ、その歴史の理解に励みたい。 

 

横浜中華街(1920年頃) 

 

現在、神奈川芸術劇場になっている場所は、もともとは外国人居留地であり、敷地の多くが欧米の商会で占められていた。だが、この居留地53番には、唯一の中国系の文経印刷所があった。この印刷所を興したのが鏡如。馮はまず長崎に来航し、1870年頃に横浜へ移った。78年に文経印刷所を開業。弟の紫珊は85年に独立、近所の60番地に致生印刷所を開業した。94年に甲午戦争(日清戦争)が始まると、当時の横浜華僑の3分の1は帰国したと言われている。翌年に孫文が来日。鏡如は孫文を支援し、53番地に住まわせ、そして文経印刷所内に横浜興中会が設立された。 

 

居留地53番の歴史を記した説明版(現在の神奈川芸術劇場) 

  

しかし、98年に康有為、梁啓超らが日本に亡命して来ると、それまで孫文を支援していた馮兄弟は康らへの支持に傾いて行く。梁ら保皇派は機関紙『清議報』を横浜で発刊し、現在の横浜山手中華学校の前身である横浜大同学校の設立(中西学校から校名変更)に動く。だが、文経印刷所はこの2年後に火事で焼失。鏡如は失意のうちに上海へ去り、最後は広東で亡くなったという。なお、鏡如は横浜で英国籍を取得しており、華人という身分には検討が必要かもしれない。 

一方、劣勢の孫文を支えたのは温炳臣・恵臣の兄弟だった。温は孫文と同じ66年に広東で生まれた。孫文がハワイへ向かった78年に温は横浜へやって来て、天祥洋行に40年近く勤務した。天祥洋行は茶などの貿易を行っており、温はここでビジネスを学ぶ。後に独自に両替商なども営んでいたようだ。 

孫文は98年に中華街の山下町121番地に移ったが、これはが用意した住まいだった。温炳臣と恵臣の兄弟は、横浜華僑の多くが康有為、梁啓超らの支持に回る中、終始一貫し孫文を物心両面にわたって援助した。山下町121番地は現在も存在するが、駐車場となっており、孫文滞在の地といった表示すらない。

 

 

現在の山下町121番地の風景 

 

炳臣は横浜で孫文に献身的に尽くしたほか、孫文に同行して和歌山へ行き、あの大博物学者の{みなかた・くまくす}南方熊楠に会うなど、まるで秘書のように行動を共にした。その後、辛亥革命が成功し中華民国が成立された際には、その祝典参加のために南京まで出向いている。これが炳臣にとって生涯唯一の一時帰国だった。 

しかし、炳臣が孫文を支えた話は後世にあまり伝えられていない。孫文亡き後、炳臣は保険の代理店を始めるなど、引き続き横浜に留まり、華僑団体や華僑学校の顧問をするなど多大な貢献をし、1955年に90歳で亡くなった。弟の恵臣は78年に99歳で亡くなっている。二人とも日本人を妻とした。恵臣夫妻はクリスチャンであった。 

 

中国人墓地の中華義荘(横浜市中区大芝台) 

  

横浜・山手の中華義荘(中国人墓地)には、昔の華人の墓もある。広東や福建、浙江など各地から来た中国系の人々が眠っており、横浜中華街の広がりが分かる。関東大震災で多くの華人が亡くなったことも、ここにある慰霊碑を見ればわかる。だが温炳臣・恵臣兄弟の墓はここにはない。二人は、横浜市港南区上大岡の坂を上った霊園の中に、ひっそりと眠っていた。周りはほぼ日本人の墓であり、えて中華義荘に入ることを避けたようにも見える。この辺り温兄弟がよく知られていない理由かな、と思いながら、高台から遠く海の方角を眺めた。 

 

  

横浜市の上大岡にある温炳臣の墓 

  

  人民中国インターネット版 2023年7月3日

 

 

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