伝統に立脚しつつ転換をリード
広東美術100年大型展覧会
本誌特約ライター・王金晶
何香凝『獅』(中国画) 1914年
7月8日から23日まで、「其命惟新――広東美術100年大型展覧会」が北京の中国美術館で開催された。展覧会では、100年来の広東美術から575点の作品が精選され、「勇立潮頭――広東における洋画運動」「芸術革命――嶺南画派と国画研究会」「匕首投槍――新興木版画運動と漫画」など六つのセクションに分けて、広東美術が新しい時代をリードし、変革の道を進んだ過程が存分に示された。
中国美術の発展の縮図
19世紀末から20世紀初めの中国において、最も早く対外開放された広東は近代芸術改革の最も進んだ地域だった。新中国画の革新はまさに広東から始まった。中国と西洋の文化が互いにぶつかり影響し合うにつれて、一部の芸術家は伝統的な中国画の表現技法や道具、材料、ひいては観念までに対して革新を進め、独特の嶺南芸術の風格をつくり上げ、近代以来の中国美術の発展に重要な影響をもたらした。広東における100年来の美術の発展は中国美術の発展の縮図であり、中国美術が伝統から現代に方向を変え、外来芸術を吸収する過程において、広東美術は大胆な模索と実践をしてきたと言うことができる。
100年の間、広東では中国美術の現代への転換における先駆者が大勢現れた。例えば、中国伝統国画の革命派「嶺南画派」創始者である高剣父氏や高奇峰氏、陳樹人氏、中国油絵の先駆者である李鉄夫氏、中国現代彫刻の先駆者である李金発氏や鄭可氏、新興木版画運動の模範的人物である黄新波氏や古元氏、李樺氏などだ。
これと同時に、中国の近代美術学校の建設計画と組織管理でも、広東の美術家たちの大きな功績があった。1918年4月に創立された国立北京美術学校(中央美術学院の前身)は、中国史上初の国立の美術教育学校で、広東の香山出身の鄭錦氏が初代校長だった。28年には、広東の梅県出身の林風眠氏が杭州に招かれて国立芸術院(中国美術学院の前身)の院長を務めた。20世紀前半、祖国を滅亡から救い存続を図るという歴史的背景の下、広東の美術家たちは毅然として中国美術発展の重責を担ったのだった。
展覧会がなぜ100年前を起点にしたかについて、中国美術家協会副主席で広東省美術家協会名誉主席の許欽松氏は次のように述べた。「1916年、中国民主革命の先駆者で広東籍の画家である何香凝が日本で孫文や宋慶齢と面会した後、芸術に関する一連の観点を提起しました。その時から数えて、すでに100年が経っています。それは新文化運動の開始よりも少し早く、皆が認める広東美術発展の節目でもあります」
変革と革新を重視