高岸明 公共外交を革新し中日関係の前進を後押し

2023-01-09 17:56:04

王衆一=聞き手

「北京―東京フォーラム」秘書処弁公室=写真提供

21世紀以降、総体的に見て安定した発展を遂げてきた中日関係はこれまでにない数多くの新たな問題に直面している。公共外交(パブリック・ディプロマシー)の革新プロセスにおいて、かつては中国日報社、後には中国外文局と日本のNGOである「言論NPO」の共同開催による公共の総合対話プラットフォーム「北京―東京フォーラム」が生まれた。同フォーラムでは両国の各重要分野における政府要人、シンクタンクの学者、財界のエリート、一流の有識者が集い、率直かつ誠実な対話、踏み込んだ意思疎通、両国関係の長期的安定のための積極的な提言が行われてきた。そうして17年間にわたり絶えることなく開催され、中日両国間で最も影響力のある公共外交プラットフォームの一つに成長した。 

中国外文局の高岸明副局長は中国日報社と中国外文局が同フォーラムを主催した主要な時期を経験しており、フォーラムの全容を最もよく知り、最も発言権を持つキーマンの一人だ。中国外文局アジア太平洋広報センターでは中日国交正常化50周年に際して高副局長を単独取材し、「北京―東京フォーラム」の過去と今後の取り組み、開催の過程におけるさまざまな困難、フォーラムの中での感動的なエピソード、高副局長自身の意識の変化などについて話を聞いた。 


「北京―東京フォーラム」の発展と中日関係についてアジア太平洋広報センターの単独取材を受ける中国外文局の高岸明副局長

  

――21世紀初頭、中日間には真に意義のあるセミ民間的な総合的交流プラットフォームがありませんでした。いかなる偶然のきっかけが「北京―東京フォーラム」という公共外交の色合いを持つ全く新しい交流の場を生んだのでしょうか。 

  

高岸明 中日はいずれも大国であり、国内総生産(GDP)はそれぞれ世界で第2位、第3位を占めており、二国間関係の良好な発展を維持することは両国の発展と両国民の幸福にとって極めて重要なだけでなく、地域および世界の安定と発展の上でも重要な意義を持っています。国交正常化から50年間、両国関係はおおむね安定していましたが、起伏や紆余曲折が常にあり、衝突や試練に直面したときもありました。とりわけ新時代に入って間もなく両国関係において変動が度重なり、意見の相違や誤解、ひいてはリスク要素が増加しています。いかにして両国の各レベルにおける交流と協力を促進し、民心の疎通を促し、相互理解と相互信頼を増進し、両国関係の安定的発展のために民意の基礎を固めるかということは、二国間関係を発展させる上での重要な課題であり、これまでとは異なる交流・コミュニケーションプラットフォームをつくり上げる客観的なニーズがあったのです。 

そういった背景の下、国務院新聞弁公室(日本の省に相当)の趙啓正主任(当時)は、中日関係は他の大国との関係と異なり、「まさしく『盆景』のようなものであり、非常に妨害を受けやすく、よりしっかりと面倒を見る必要がある」と考えました。このような認識に基づき、対日公共外交を強化する考えが各方面から賛同を受けたのです。 

当時、折しも在日中国人学者の紹介により、言論NPOの工藤泰志代表は中国日報社と巡り合い、趙主任に会って、中国側の機関とフォーラムを共同開催し、中日の踏み込んだ交流を推し進めたいというアイデアを伝えました。趙主任はこれこそが両国の公共外交の突破口であると考え、力強い支持と心を尽くした指導により、フォーラムの立ち上げにおいて決定的な役割を果たしました。 

2005年の中日関係の低迷期に、国務院新聞弁公室および趙主任の支持と指導の下、中国日報社と言論NPOは北京で第1回「北京―東京フォーラム」を開催しました。 

  

――趙啓正氏はフォーラムの生みの親と呼ぶにふさわしい存在だったと言えますね。では、フォーラムの立ち上げ後、どのようにして開催を継続していったのでしょうか。また、長年中断されることがなかった模索により、公共外交プラットフォーム構想の初志を貫徹することはできたのでしょうか。 

 

 趙主任はフォーラムの立ち上げで決定的な役割を果たしただけでなく、常に最も重要なゲストの一人であり続け、一貫してフォーラムの発展に関心を持つとともに指導を行い、毎年フォーラムに出席し、その中の重要な活動に参加しました。 

私は07年からフォーラムの組織運営業務に携わり始めました。当初、私たちはこのような総合的フォーラムの開催はとても必要なことだと認識し、双方のフォーラム主催者による全力を傾けての取り組みと真心からの協力、ゲストの情熱と誠実さが毎回のフォーラム開催を後押ししてきました。 

15年、フォーラムのさらなる発展のため、当時の蔡名照国務院新聞弁公室主任の判断と指導により、中国側主催というバトンは日本語人材がより豊富な中国外文局に受け継がれました。当時の周明偉中国外文局局長は喜んで引き受け、周局長をはじめとする歴代の局長による入念な組織運営の下、フォーラムは今日まで発展してきました。17年間、中日関係が風雨や挫折を経る中でもフォーラムは中断されることなく、むしろ大いに発展し、その強靭性と生命力はフォーラムの初志と意義を十分に示してきました。 

「北京―東京フォーラム」の歩みを振り返ると、中日双方のチームが中日関係について終始一貫して使命と思い入れを抱いており、このことが私に深い影響を与え、変わることなくフォーラムに携わることになったのだと思います。双方の長きにわたる不断の後押しを通じ、「北京―東京フォーラム」は次第に中日間で最も規模が大きく、最もハイレベルで、最も幅広い分野にわたり、最も踏み込んだ議論が行われ、最も影響力の大きな公共外交プラットフォームの一つに成長しました。 

  

――中日関係が百年間なかった変動の深刻な影響を受け、不確実性を見せている中、「北京―東京フォーラム」は政府間と民間の間に位置する公共外交モデルとして、中日関係の健全で安定的な発展を後押しするためにどのような独自の役割を果たすでしょうか。 

 

 「北京―東京フォーラム」の影響力は絶えず大きくなっており、ブランド力は徐々に高まり、中日の交流においてますます重要な役割を発揮しています。また、双方の政府による重視およびその独特の運営モデルと切り離せないものとなっています。 

中央政治局委員で国務委員兼外交部長の王毅氏は05年からの駐日本中国大使在任期間中に開催された第1回のフォーラムをはじめとして、その発展に関心と支持を寄せ、過去数回のフォーラムに出席し、スピーチを発表しました。過去17回のフォーラムでは歴代の国務院新聞弁公室主任がいずれも参加し、基調演説を行いました。毎回のフォーラムに参加する中国側の副部長(副大臣)級以上の政府要人は十数人に上ります。日本側も同様に数多くの政府要人や国会議員が出席しています。岸田首相はかつて外務大臣を務めていた際、「北京―東京フォーラム」に参加し、スピーチを行ったことがあります。また、中日両国の政界、財界、学術界における大勢の優れた人物もフォーラム上で中日関係の健全な発展のために提言を行い、知恵をささげています。これらのことは「北京―東京フォーラム」がハイレベルな交流プラットフォームであることを示しています。 

その他の二国間フォーラムと異なる「北京―東京フォーラム」の大きな特徴は、背景に両国政府のサポートがある一方で、公共外交の形をとっていることです。このような方式の利点は双方のハイレベルな人物が柔軟さとゆとりを持ち、フォーラムで率直かつ誠実な対話、踏み込んだ意思疎通を行い、危機防止と問題解決のために十分に思考を交わすのに適していることです。同時に、双方の有識者の知恵もフォーラムの成果として、両国の政策決定に生かされることができます。 

「北京―東京フォーラム」が長年にわたり堅持してきた公共外交モデルは双方の政府に認められており、これこそまさしくフォーラムが独自の役割を果たし、成功を収めている要因です。 

  

――「北京―東京フォーラム」が17年連続で成功裏に開催されたのは容易なことではありません。フォーラムの活力や魅力が伝わる印象深いエピソードとしては、どのようなものがありますか。

 

 今日に至る17年間の道のりの中には、多くの忘れがたいエピソードがあります。 

09年、私たちは第5回「北京―東京フォーラム」を大連で開催しました。歓迎のための晩餐会が行われる当日、北京で突然雪が降り、北京首都空港はまひ状態となり、全ての航空便が運休になったことを覚えています。中国側のほぼ全てのゲストは北京首都空港に取り残されてしまったのです。私たちは非常に焦り、あらゆる手段を考え尽くして北京首都空港や中国民用航空華北地区管理局に連絡し、さらには空港の管制塔にまで電話をしました。空港が航空便の離陸を手配できたのは、その日の午後5時すぎでした。最初に飛び立った旅客機には、フォーラムに参加する3040人の中国側ゲストが乗っていました。夜7時すぎ、ゲストの方々はついに大連の会場に着き、晩餐会に参加し、フォーラムも無事開催することができました。より焦燥感に駆られたのは、私たちが招いた同時通訳者が北京から自家用車で出発し、一晩かけて風雪の中を走り、翌日の明け方5時頃にようやく大連に到着して、フォーラムでの同時通訳業務をつつがなく行ったことです。 

もう一つの出来事も紹介しないわけにはいきません。19年に開催された第15回「北京―東京フォーラム」では、趙啓正氏が中国の画家を招待し、「呉越同舟」の故事をテーマとする絵画を描いてもらい、フォーラムに出席した日本の友人に贈りました。それにより、中日双方は互いに助け合い困難を克服することで二国間関係の安定を守り、手を携えて双方の共同発展を促進すべきという素晴らしい願いを表したのです。このエピソードは中日の友好と交流における美談として語り継がれるものとなりました。 

これらのエピソードは中日交流事業に携わる人々が固く守る共通の初心、フォーラムの発展推進と中日の友好・協力促進のためにささげた力を十分に示しています。これこそが継続的な開催の原動力であり、フォーラムの影響力が高まっている根本的要因でもあります。17年間にわたってフォーラムが困難を克服し、開催を続けてきた過程は、前途多難でありながらも荒波を乗り越えてきた同時期における中日関係の縮図でもあります。 

  

――毎年のフォーラム開催直前には中日両国で行った世論調査の結果が発表されます。このデータは中日関係の変化を客観的に反映できていると考えますか。私たちはこの世論調査の意義をどのように受け止めるべきでしょうか。 

 

 フォーラムの重要な構成部分として、05年に第1回のフォーラムが始まって以来、双方の主催側がそれぞれ専門的な調査機関に手配して、中日関係への見方について世論調査を実施しています。アンケート調査のうち4分の3の質問は毎回同じで、他のおよそ4分の1の質問はその当時の中日関係で注目を集めている問題をベースとして、国際関係の新たな動向や現象と結び付けて設問されたものです。毎回のフォーラムの開催前に、双方は世論調査の結果を同時に公表しています。 

17年間蓄積された調査データは中日関係の研究上、極めて大きな資料価値を持っています。その完全性、系統性、連続性は中日関係の変化を反映した定量分析であり、両国が外交政策を定める上で、さらには双方がさまざまな形での往来を進める上でも重要な参考データとなります。同時に、世論調査の結果は双方のメディアで広く伝えられます。毎年の世論調査のうち、両国民の相手国への好感度は、両国でしばしば高い関心と大きな反響を呼んでいます。 

世論調査の結果は総体的に見て客観的なデータであり、異なる時期における中日両国民の両国関係への見方を反映しています。両国の政治関係で摩擦が生じたとき、一部のデータもそれに合わせて変動しますが、中日関係にいかなる変化が生じようとも、大多数の回答者は中日関係が両国にとって最も重要な二国間関係の一つであり、双方は政治、経済・貿易、文化など各分野での交流と協力を保つべきで、民間交流は相互理解と相互信頼を促進する上で非常に重要だと考えています。 

  

――毎年のフォーラムで発表されるコンセンサスもこの世論調査を参考とし、フォーラムの最も重要な成果であるコンセンサスの合意は困難な過程を伴うものだそうですが、それにまつわるエピソードを紹介してもらえますか。 

 

 中日は共に東方文明の代表であり、文化や伝統も近く、経済は高度に相互補完しており、共通の利益が存在します。同時に、双方の間には一部の分野で相違もあります。フォーラムの双方の組織運営側はそのことを十分に認識し、率直かつ誠実な対話、踏み込んだ交流、小異を残して大同を求めること、コンセンサスの探求という原則を一貫して守ってきました。また、それぞれの立場を述べると同時に相手方の意見にも耳を傾け、その中から提議を行い、コンセンサスをまとめています。 

「北京―東京フォーラム」では今日までに10余りのコンセンサスを共同発表してきましたが、毎回のフォーラムでコンセンサスをまとめるのは簡単なことではありません。コンセンサスに関する協議は少ないときでも3~4時間、多いときでは5~6時間を要し、ほぼ毎回夜を徹しての議論となりますが、うれしいことに双方は基本的にコンセンサスに合意できています。 

これらのコンセンサスは毎回のフォーラムにおける歴史的記録および成果の結実で、双方のゲストが二国間関係の健全で安定的な発展のために払った努力の表れであり、この目標の実現のために皆がささげた知恵を書き記したものでもあります。 

  

――今年の年末には第18回「北京―東京フォーラム」が開催されますが、これは中日国交正常化50周年を記念する一連のイベントの中でも重要な催しです。今年のフォーラムにおける議論の方向性と得られる成果について、どのような考えと期待を持っていますか。 

 

 今年は中日国交正常化50周年に当たります。私たちは初心を振り返り、経験を総括し、現実に向き合い、答えを模索することにより、中日関係の長期的安定のための良策を探し求めなければなりません。 

そのため、今年のフォーラムの最も重要な任務は経験を総括し、未来に向かうことです。私は双方のゲストがより率直かつ誠実で踏み込んだ交流を通じ、それぞれの立場と姿勢を表明すると同時に共通点を探し出す努力をし、両国政府の政策決定と二国間関係の健全で安定的な発展のための提言を行い、民間交流と民心の疎通を促進するための懸け橋、そして絆としての役割を発揮することを願っています。このことは両国それぞれの発展と人々の幸福だけでなく、地域と世界の平和と発展のためにも相応の役割を果たし、さらには人類運命共同体の構築に貢献します。 

  

――フォーラムの中国側組織運営者として、日本の協力パートナーについてどのように評価していますか。

 

 日本の協力パートナーであり、日本側の主催団体である言論NPOの工藤泰志代表についてお話ししたいと思います。工藤代表は目標を追い求めることにこだわり、仕事をいささかもおろそかにしない人です。私たちは協力をする中で、かつては仕事上の細かな事で言い争ったことも少なくありませんでしたが、後になって私たちの対立が認識の違いによるもので、私たちの論争はよりしっかりと仕事をするためのものだと気付きました。そのため、私たちはより多くの場面で問題解決のために知恵を出し合うよう、共に双方のチームをリードして、フォーラムの良好な運営のために互いに足並みをそろえました。 

17年間、私たちは互いに磨き合い、順応し、助け合い、信頼してきました。仕事の上で呼吸が合ってきただけでなく、友情も生まれたのです。そうして工藤代表と私は一つの共通認識に至りました。それは、私たちがフォーラム開催の初心を守り、最大限努力をすれば、フォーラムのさまざまな業務をしっかり行えるということです。 

同様に、日本側指導委員会の中心メンバー、例えば明石康元国連事務次長、宮本雄二元駐中国日本大使といった方々も、フォーラムの良好な運営のために非常に大きな努力を払ってきました。この場を借りて工藤さん、明石さん、宮本さんをはじめとして、毎回の業務にきめ細かく、真剣な姿勢で向き合う日本の協力パートナーに感謝を述べたいと思います。「北京―東京フォーラム」が中断することなく開催を続け、ますますしっかりと運営されているのは、これらの方々の懸命な努力があればこそです。 

  

――高副局長は「北京―東京フォーラム」のこれまでのほぼ全ての道のりに携わってきました。17年間で何を得て、どのような感想を持ちましたか。

 

 「北京―東京フォーラム」は現在までに17回開催され、私は14回参加し、そのうち12回はフォーラムの組織運営を担いました。この仕事からは数多くの思いを得ることができました。 

まず、私たちは一度目標を定めたら、そのためにたゆむことなく努力する必要があります。「北京―東京フォーラム」の使命は中日の交流と協力、民心の疎通を促進し、両国関係の健全で安定的な発展を後押しすることです。フォーラムの主催側として、私たちはこのことを自らの任務とし、いかなる試練に直面しようとも困難を覚悟で前へと進み、フォーラムの各関係者と共に的確な措置を取り、共通の目標を実現します。 

その中にはフォーラムの双方の指導機関トップによる心を尽くした配慮、双方の実行委員会の各専門家による地道な努力、両国の参加ゲストの大きな助力、両国スタッフの懸命な働きも含まれます。皆さんが行動に責任を持ち、たゆむことなく堅持しているからこそ、フォーラムは今日の規模にまで発展することができたのです。 

第二に、中日関係は複雑に絡み合っており、そのことは両国の歴史と文化、双方の国家利益と民族感情などさまざまな要素にまで及ぶことから、時にはセンシティブな問題となります。そのため、私たちは絶えず学びを深め、これらの問題を正確に把握して、適切かつ的確な措置を取り、関連業務を推し進める必要があります。 

第三に、私たちは中国と諸外国の相互理解を後押しする業務の進め方を取り入れ、原則を堅持すると同時に国際的なルールを順守し、柔軟かつ実務的な方法を用い、効果を求めて業務を推進する必要があります。そのようにしてこそ、双方がお互いを理解した良好な協力関係を打ち立てる上でプラスとなります。 

フォーラムのさまざまな業務が着実に前へと進んでいることをうれしく思います。幾年か後にこの時のことを振り返った際、私は中日関係の安定的で健全な発展を推し進めるために努力をしたのだと、喜びを覚えることでしょう。 

 

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