「後衛」を自任の中島健蔵

2022-02-08 14:05:43

劉徳有=文

 若いころから、日本関係の仕事の中で一番お世話になった文化人はといえば、おそらく中島健蔵氏であろう。

 最初にお目にかかったのは確か1961年3月、東京でアジア・アフリカ作家緊急会議が開かれたとき、中国代表団の通訳で随行して日本を訪問したときである。

 ちょうど桜が満開のころ、ある日、作家の劉白羽氏と詩人の林林氏が日中文化交流協会事務局長(当時)白土吾夫氏の案内で、中野区にある中島氏のお宅を訪れ、ご夫妻に暖かく迎えられた。

 中島家の居間は、小さな庭に面していた。植木や芝がぽかぽかとした春の日差しを浴びて、周囲はのどかな雰囲気に包まれていた。ふと目をやると、2、3羽の椋鳥が、エサを求めて芝を歩いている。

 「毎年、春になると、椋鳥が必ずお庭に来ます。私たちは絶対にこの鳥たちを驚かさないのです」と京子夫人がうれしそうに教えてくれた。

 「椋鳥も中島先生が平和人士であることを知っていますから」と白土氏が冗談を言うと、皆が笑った。

 「今の東京はちょうど桜がきれいな時期ですので、お花見に行きましょうか」と中島氏が提案した。

 京子夫人の運転で、井の頭公園に向かった。繁華街から離れた井の頭公園は静かだった。公園に入り、大きな森をゆっくりと散策し、気持ちがよかった。森を抜けると、目の前が突然まぶしいほど明るくなり、辺り一面は紅の薄雲のように桜が光っていた。花びらが舞い落ち、降る雪のように見え、見事な光景だった。そのときに出会った野口雨情の詩碑も、今では思い出の一つとなっている。

 

日中文化交流協会中島健蔵理事長(右)と会見する鄧小平氏(左)。通訳は本文筆者(写真・劉徳有氏提供)

 中島健蔵氏は56年3月、日中文化交流協会創立の際、理事長に推され、79年5月会長に就任するまでずっと理事長を務められたが、その間中国へ何度も足を運び、多くの文化人と交流を深めている。中島氏本人の話によれば、もともとフランス文学を専攻し、戦前から東京大学で教壇に立ち、フランス文学とフランス語を教えていたそうだ。中国と全く無縁ともいえる氏が、なぜ協会の責任者になり、日中文化交流と日中友好運動に身を投じるようになったのか? それは、氏の経歴と無関係ではなかろう。

 41年12月8日太平洋戦争勃発後、中島氏は突然、「召集令状」を受け、「軍属」の肩書で日本軍に占領されたシンガポールに送られた。滞在中、幾度も華人の老婦人に呼び止められ、若い男性の写真を見せられた。写真には中国語で「自分の子どもですが、戦争以来行方不明、この青年が今どこにいるか、ご存じありませんか」と書かれてあった。中島氏は直感で、日本軍がシンガポールで虐殺を行ったかもしれないと思った。日本軍が「抗日分子」を捕らえるために、「良民証」配布を口実に住民を集め、1万人前後の罪のない青年を海岸に連行し、全員を機関銃で殺したということを確認して、大きな衝撃を受けた。氏は、中国大陸へは行かなかったが、シンガポールで、日本の「聖戦」の実態に触れ、また戦後、日本軍による中国大陸での暴行が暴露されるに及んで、苦悩がさらに激しくなり、極限に達したという。そうした苦悩の末、中島氏に一つの信念が生まれた。「日中関係の如何によって日本の未来の運命が決まる」ということだった。

 64年の秋、筆者は記者として東京に駐在するようになってから、中島氏との付き合いが多くなり、お宅にお邪魔することもしばしばあった。

 中島家の居間に飾られた1枚のお皿が特に印象的だった。その皿には、老子の言葉「信言不美、美言不信」(信言美ならず、美言信ならず=誠のこもった言葉は飾り気がなく、飾り気のある言葉は信用ができない)が書かれ、楚図南氏が揮毫したものである。お正月になると、中島氏ご夫妻は中国の駐在人員を自宅に招き、協会の方たちも呼んで一緒にお雑煮を食べ、皆で楽しいお正月を過ごした。

 評論家兼学者の中島氏の蔵書には驚いた。玄関をはじめ、階段、廊下まで本棚で埋まり、本があふれていた。文学から、医学、器械学などなど、ありとあらゆる分野の本が並べてあった。

 氏は昼間と夜は社会活動に参加し、夜中から夜明けまで創作活動をしていた。午前中を睡眠時間に充てていた氏の生活習慣を知り、筆者は決して午前中にお邪魔するようなことはしなかった。内外に何か大きな事件があった場合、中島氏に日本の文化人を代表して談話を発表してもらうとき、よく電話取材を行った。いつも午後自宅に電話し、夫人にスケジュールを組んでもらった。

 1903年東京生まれの中島氏は幼い頃、北海道にしばらく住んだ以外、ずっと東京を離れなかった。江戸っ子の中島氏は、生粋の江戸弁を操って、話のスピードが速かった。集会などでスピーチをするときも、堅苦しい言葉を使わず、江戸弁で話した。たまに中国の代表団を歓迎する席で、自筆の原稿を持ってあいさつする場合もあったが、記事の正確性を期するため原稿を借りるときは、いつも快く承諾された。

 あのいまわしい「文革」の間、中島氏も苦悩したらしい。中国へ行っても会いたい友人に会えなくなり、日本の日中友好団体も混乱状態に陥り、心を痛めた。70年、氏は日中文化交流代表団を率いて国慶節式典参加のため、北京を訪れた際、天安門楼上で毛沢東主席、周恩来総理と会見した。会話は短かったが、大いに励まされ、「団結」そして「小異を残して大同に就く」重要さを強く感じさせられたという。

 74年出版の自著『後衛の思想』に氏はこう書いている。

 「振り返って考えると、日中文化交流の事業は、はげしい風波を受けながら、あまり速度を変えることもなく、日中国交正常化という目的をめざして進んでいたように感じられる」「両国人民の広い範囲の相互理解を深め、友誼の感情を高め、それが、やがて国交正常化への布石の役に立ってきたことは、歴史の事実と言っていいであろう」

 

 中日国交回復前に、中島氏が筆者に語った言葉が忘れられない。

 「日本と中国は一つの海に隔てられています。今、両国の人民は両国の間に橋を架けていますが、私はその橋の一つの橋脚になりたいのです。将来、橋が完成し、人々が橋を行き交うときに、中島健蔵はどこにいるかと聞かれたら、海の中の小さな島、それが中島健蔵だと教えていただきたいのです」

(本稿の一部は、藤原書店出版の拙著『時は流れて』を参考にしました)

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