『虫のいろいろ』とノミのサーカス

2022-08-02 16:53:14

劉徳有=文 

短編小説『虫のいろいろ』に接するまでは、作家の尾崎一雄氏について何も知らなかった。 

いろいろ調べて分かったのだが、昭和2(1927)年早大国文卒、早くから志賀直哉に師事し、昭和8年に書いた『暢気眼鏡』が単行本になると同時に、芥川賞を受け、文壇に認められるようになったそうである。第2次世界大戦末期に、尾崎は胃潰瘍のため郷里の神奈川県小田原に帰り、長い病床生活を送るようになったが、病中の「私」によって観察された蜘蛛や蝿、蚤や蜂などの小動物の習性や生命力と「私」の心境を重ね合わせ、生と死についての深い考察をユーモラスな筆致も交えて描いたのが『虫のいろいろ』(1948年1月号の『新潮』に発表)である。この短編は、死に直面した尾崎の病をねじ伏せる勢いが感じ取られる哲学的な心境小説の代表作として高い評価を得、戦後における尾崎の文学的復帰を示す作品であると見なされていた。病気を克服した尾崎は、晩年下曽我を「根拠地」に多くの軽妙なタッチの優れた作品を書き残している。 

考えてみると、もうかなり以前のことになるが、東京で15年にわたる長い新聞記者生活を終えて、筆者が北京に戻って間もなく、1980年頃に「中国社会科学院外国文学研究所」の唐月梅氏から、短編小説『虫のいろいろ』を翻訳するよう依頼された。 

  

作家の尾崎一雄氏(写真・劉徳有氏提供) 

短編小説といっても、尾崎一雄の『虫のいろいろ』は異色であり、強いて色分けすれば、思いつくまま筆を運ぶ「意識の流れ」の部類に属する作品、と中国では見られていた。「文革」以前、「意識の流れ」は中国がそれまでに提唱してきたプロ文学と相いれないものとされていたので、中国で翻訳紹介できるようになったのは、「文革」が終結してからである。 

さて、翻訳にかかってまずぶつかった問題は、タイトルの『虫のいろいろ』をどう訳すかであった。考えられる訳し方がいくつかあった。『虫子的種々』『虫子的幾件事』『虫子的二三事』などなど。いろいろ考えたあげく、『虫子的二三事』に決めた。原文の意味に近いし、中国語の角度からみて文学的だったから……。 

訳しながら思ったのだが、『虫のいろいろ』は中国人の感覚で言えば、小説というより、むしろ思いつくまま書きつづった随筆のような感じだった。しかし、翻訳が進むうちに、とうとう難題にぶつかり、音を上げてしまった。それは、「蚤の曲芸」についての描写のところに来たときだった。以下はその原文—— 

「また、虫のことだが、蚤の曲芸という見世物、あの大夫の仕込み方を、昔何かで読んだことがある。蚤をつかまえて、小さな丸い硝子玉に入れる。彼は得意の脚で跳ね回る。だが、周囲は鉄壁だ。散々跳ねた末、しかしたら跳ねるということは間違っていたのじゃないかと思いつく。試しにまた一つ跳ねて見る。やっぱり無駄だ、彼は諦めて音なしくする。すると、仕込み手である人間が、外から彼を脅かす。本能的に彼は跳ねる。駄目だ、逃げられない。人間がまた脅かす、跳ねる、無駄だという蚤の自覚。この繰り返しで、蚤は、どんなことがあっても跳躍をせぬようになるという。そこで初めて芸を習い、舞台に立たされる」 

蚤が芸を仕込まれて舞台に立つとあるが、あんな小さい蚤がどうやって芸を習うのだろうか。「舞台に立つ」と言うが、どんな容器に入れて観客に見せるのだろうか。いくら考えても分からなかった。手元にある資料を調べたが、らちが明かない。仕方なく、一字一句、日本語の文面どおり訳すほかなかった。単行本になった後も、本当に蚤にサーカスができるのだろうかと疑問に思い、訳文に自信がなく、不安だった。 

ところが、十五、六年たったある日、偶然の機会に、講談社の「読書人の雑誌」『本』(1996年4月号)に掲載されている『ノミ』(小西正泰)という短文を読んだ。 

「ノミ類はノミ目に属し、世界から約2400種、日本から約75種が記録されている。……霊長類ではヒトだけに寄生するが、これはヒトがある期間、移動せずに定住することがノミの生活史にとって好都合だからなのかもしれない」と蚤の生態を紹介した後、思いがけなくも、こんなことが書いてあった。 

「ところで、『ノミのサーカス』という変わった見世物があり、これは16世紀にイギリスでおこった。このサーカスはノミを『訓練』して、いろいろな芸をさせ、観客はこれを虫めがねでのぞいて見物するのである。日本でも1929、1936および1960年にドイツ人や中国人(注・香港在住の董守経)がやってきて興行した」 

「近年はスターのヒトノミが入手困難のため、このサーカスは消滅したといわれている。ところが、ごく最近のニュース(朝日新聞、1996年1月10日付)によると、アメリカはサンフランシスコ市の女性興行師がノミの綱渡りや『ノミ大砲』などの芸を見せているという。このような『無形文化財』は、永く伝承したいものである」 

  

『虫のいろいろ』の中国語訳(写真・劉徳有氏提供) 

さらに、ヒトノミについても紹介があった。 

「ヒトノミは垂直には雄で25㌢、雌で15㌢、水平には雄で40㌢、雌で36㌢跳ぶという記録がある(阪口浩平、1967)。ちなみに、ヒトノミの体長は2(雄)~3(雌)㍉である」 

これを読んで、「蚤のサーカス」があるという確信を得た。自分の翻訳が間違いでなかったことが分かり、ホッとした。 

その後、小学館の『日本大百科全書』にも、「ノミのサーカス」についての詳しい説明が載っていることを知った。 

要約すれば、ヒトノミの頭部と前胸部の間を細い針金でくくって、逃げないようにし、拡大鏡で見せる演芸で、旋回、跳躍、、綱渡りなどの曲芸があり、パリに始まった。この地球最小のショーは、ロンドン、ストックホルムなど欧州諸都市に広がったが、日本へ渡来したのは、香港一座のもので、1960年9月に横浜で公演したのが最後。コペンハーゲン市のチボリ公園にもノミのサーカスの常設館があったが、現在では両者とも途絶えてしまった、とある。 

いつぞや、デンマークの首都を訪問したとき、チボリ公園前で、このことを思い出し、ある種の親近感を覚えたのを記憶している。 

訳文は、中国社会科学出版社の『世界文学双書』として出版された単行本――『蒼氓』に収録された。 

 

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