山崎豊子と『大地の子』
劉徳有=文
作家・山崎豊子氏のお名前は、1960年代、『サンデー毎日』の連載小説『白い巨塔』と同名の映画で初めて知ったが、お目にかかったのは、小説『大地の子』の取材のため、中国へ来られた80年代の半ば頃だった。
山崎豊子氏(写真・劉徳有氏提供)
『大地の子』は知る人ぞ知る、日本人の中国残留孤児を主人公に、日本による対中国侵略戦争、文化大革命、日中国交正常化、日中共同の製鉄所建設プロジェクトなど、戦中から戦後、そして中国の改革開放後に至るまでの激動の波にもまれた人々の運命を描いた大河小説である。87年5月号から91年4月号まで『文藝春秋』に足掛け5年間連載され、それ以前の取材期間3年を含めると、実に8年がかりの大作である。
『大地の子』を書くに当たっては、山崎氏は新聞記者出身であるだけに綿密に徹底的に取材をされた。
「小説は自分で取材し、自分の言葉で書かないと実感が出ない」を信条とし、取材の最中と執筆時に過労で倒れるほどの打ち込みようであった。
取材は、84年から始められたが、政治体制、生活環境を異にする中国での3年間にわたる現地取材は、大変苦労されたようだ。取材から完結まで8年の間に、山崎豊子氏は、製鉄のことを半年間ほどかけて勉強したり、製鉄所の建設現場に泊まり込んだり、外国人未開放地区の農村にホームステイしたり、内蒙古自治区の労働改造所で囚人たちと一緒に畑を耕したり話をしたり、戦争孤児と義父母の家を直接訪問したりと、徹底した取材・調査を敢行。その丹念さと執念のありようは、作品からありありとうかがえる。
80年代と言えば、中国ではすでに開放政策が実施されるようになっていたが、まだ多くの場所が外国人には未開放であった。取材の壁は高く、やむなく一時撤退の決意をしたこともあるそうだ。ちょうどそのとき、胡耀邦総書記との会見が実現した。この機会を捉えて、山崎氏が取材の経緯をお話しすると、そのような状況は「必ず改めさせるから10年がかりででも書くべきだ。中国を美しく書かなくて結構、中国の欠点も暗い影も書いてよろしい。それが真実であるならば、真実の中日友好になる」と励まされ、取材協力の約束をされたとのこと。その翌年から、会う必要なしと拒否されていた国家機関の取材も、労働教養管理所、労働改造所の取材も許可されるようになり、その上、戦争孤児と養父母の家への直接訪問と農村でのホームステイも許され、信じられないほどだったそうだ。
胡耀邦氏との会見記は『文藝春秋』(85年5月号)に掲載されたが、読み進むうちに、1カ所だけ、どうも気になる記述があった。いわゆる「」の話である。会見の場で、山崎氏が中国の航空会社と旅行社の仕事の能率の悪さを指摘した際、胡氏は、問題を抱え過ぎてかえって「無神経」になってしまう例えに、中国のことわざ「債多不愁、虱多不痒」(借りが積み重なるとかえって困らず、虱が多いとかえってかゆくなくなる)を引用されたが、『文藝春秋』の会見記には、自分の「体はいま虱だらけで、かゆくてたまらぬ」となっており、意味不明で、ずっと気になっていた。おまけにタイトルまでが「『虱』だらけの指導者……」うんぬんとなっている。なぜこんな話になってしまったのだろうか?
思うに、ここのところは、「借りがたまると、負担どころか、かえって身軽になるものだ」、つまり問題が山積するとかえって無神経になってしまうの意味に理解するのが正しいのではなかろうか?おそらく通訳の中国語的な「直訳」でそうなったのだろう。胡氏は、中国の指導者として抱えている問題を直視し、直ちに改めるべき決意を示されたのだと思われる。それはともかく、この会見後、それまでにっちもさっちもいかなかった取材が一変して、スムーズにはかどるようになった。『大地の子』の「あとがき」にも、胡耀邦氏の取材協力の約束は「信じられないほど」のものであったと記されている。
『大地の子』(上、中、下)(写真・劉徳有氏提供)
この会見の後に、山崎氏は筆者の勤務している中国政府文化部へおいでになり、お目にかかったことがある。進行中の小説の構想や取材の困難など、いろいろと話に花を咲かせているうちに、突然、「小説の主人公——残留孤児の名前ですが、何と付ければ良いでしょうか?」と聞かれた。
一瞬、小生も戸惑い、答えに困ったが、簡単で読みやすいのがよかろうと思い、以前机を並べて仕事したことのある同僚の名前を思い出し、
「陸一心など、いかがですか?」
「中国人に、そんな名前を付けておかしくありませんか?」
「いいえ、おかしくありません。現にそういう名前(苗字は違うが)の人がいます」
図らずも、「陸一心」の名前が採用された。
ずっと後になってから、この名前が小説の主人公にぴったしだという人がいてびっくりしたことがある。その人の説では、日本人として生まれ、「二つの祖国」を持ちながらも、中国の養父母の恩を忘れず、一心に中国の建設に自分の一生をささげた戦争孤児にふさわしいというのである。当初、そういうつもりで提案をしたのではなく、ただの思い付きにすぎないものだったが、その意味では「けがの功名」と言えるかもしれない。
たしか、87年の4月だったと記憶しているが、山崎豊子氏から直筆の手紙が寄せられた。以下はその抜粋。
「拝啓ご壮健にてお過しの事と存じます。訪中の際には、一方ならぬご芳情を賜り、有難うございました。
さて、小説『大地の子』は四月十日発売の『文藝春秋』五月号よりスタートすることになりました。掲載誌は毎月、お送りさせて戴きます(略)」
「拝復只今、ご丁重なご返書を賜りました。ご多忙の中、先生のご貴重なお時間を、私のためにお割き戴き、ご芳情の程、厚く御礼申し上げます。
受入れ単位につきましては、先便でお願いしたように、この秋の取材が正念場と、覚悟を新たに致しておりますので、劉先生のおはからい下さいました社会科学院であれば、私の仕事の進め方も熟知して戴いており、有難く存じます(略)」
『大地の子』の構想についてだが、山崎先生は、口外しないよう再三念を押して筆者に語ったことがある。
「日中友好がテーマでも、スローガンでなく小説ですから、山あり、谷あり、明るい面も暗い面もあって、最後のところで三峡下りを書くつもりですが、陸一心の乗った船が波を乗り越え、明るい前途が開ける場面を描くつもりです。自然に書いた結果が、日中友好になればと思っています」