浅利慶太氏とミュージカル『李香蘭』
劉徳有=文
浅利慶太氏と筆者夫妻
浅利慶太と言えば、ミュージカル。筆者と浅利慶太氏を取り持った縁もミュージカルであった。
浅利氏は慶応大学在学中、1953年に仲間らと共に劇団四季を創設、『キャッツ』や『ライオンキング』の上演を手掛け、日本におけるミュージカルブームをつくり出したことはあまりにも有名。63年、東京に日生劇場を建設したことも知っていた。筆者が60~70年代、新華社記者で東京滞在中、浅利氏に関する新聞報道をよく目にし、日生劇場にもしばしば足を運んだが、浅利氏にお会いする機会はなかった。
浅利氏との初対面は、86年だった。その頃、筆者は中国政府文化部で、国際文化交流を担当していた。北京での会見の話題も、もっぱらミュージカル。そのとき、ミュージカルと中国の伝統演劇の比較について語った浅利氏の話が印象深い。
「京劇や中国の地方劇は歌あり、せりふあり、しぐさありで、言ってみればミュージカルそのものですよ。中国には、ミュージカルを広める素地があり、潜在力があります」
この会見で決まったのが、88年、劇団四季によるミュージカル『ハンス・アンデルセン』の北京公演。丁度、中日平和友好条約締結10周年に当たり、初めてミュージカルに接した北京市民も多く、公演は想像以上の成功を収めた。北京1カ所で4回の公演だったが、初日前の3日間に4000枚の入場券が全部売り切れるという盛況ぶりで、この公演によって、中日文化交流にミュージカルという新しいジャンルが開かれた。
92年4月、浅利慶太氏は劇団四季を率いて中国へ2度目の公演に来られた。演目は氏の創作と演出によるミュージカル『李香蘭』であった。
これについてはいろんな思い出がある。確か88年の11月だったと思うが、中日友好21世紀委員会第5回会議に出席のため東京に行ったとき、ある晩、浅利氏は友人の香山健一氏(同じく21世紀委員会の委員)と共に、銀座の高級料亭「吉兆」で一席設け、もてなしてくださった。席上、浅利氏は今後の企画として、中国人も日本人もよく知っている李香蘭の一生をミュージカルにしようと思っているがどう思うかと尋ねられた。東北出身の筆者は、小さいときから李香蘭の名前や、いわゆる「満州国」でその果たした役割を知っており、民衆の間に積もっている不満・不評をじかに感じ取っていただけに、「このことは、慎重にされた方が良いのでは?」と遠回しに思いとどまるよう提案したことがある。
李香蘭は、1920年、いわゆる旧満州(中国の東北地方)に生まれ、中国人養父母から「李香蘭」の名をもらい、日本軍部の息のかかった支配者らの肝いりで、「中国人歌手・女優」としてデビュー。いわゆる「満州国」の建国から日本の対中国全面侵略戦争、太平洋戦争へと突入したあの暗い時代に、日本の「国策」による宣伝工作に協力したかどで、戦後中国から反逆罪に問われ、死刑を宣告されそうになるが、出身が日本人であることが証明されて、無罪釈放となる。
北京で浅利氏に再度会ったとき、ミュージカル『李香蘭』を完成する意思の固いことを知った。氏の話によれば、台本を書くに当たって、劇の主人公・李香蘭こと大鷹淑子(旧姓山口)に会い、特に2点確認してもらった。①日本は中国を侵略したと思うか?②中国人民に対して罪があると思うか? 大鷹氏はこの2点を全て認めた上、中国人民に対する謝罪の気持ちを表した。これを聞いて、浅利氏はこれなら書けると決意し、上に述べたような時代背景の下に生きた山口淑子の悲劇的な半生を描いたばかりでなく、日本軍部の残虐性と「盲目的な愛国主義」をも批判して台本を書き上げた。これらの内容を表現するため、浅利氏はわざわざ中国東北地方に赴き、かつて日本軍が無実の中国人を集団虐殺した「万人坑」の遺跡などを実地検証し、さらに、「九一八事変(いわゆる「満州事変」)」後に中国で歌われた悲憤に満ちた歌曲『松花江上』を直接取材し、創作ミュージカルに取り入れている。なぜ浅利氏は劇の重点をここに置いたのだろうか? 作家・城山三郎氏との対談の中で、浅利氏は次のように述懐している。
「ショックだったのは、劇団の若い連中があの時代について何も知らなかったことです。僕たちがあれだけのたうちまわった時代、いつまでも深く心に傷跡を残しているあの時代を、四半世紀も年が離れていないのに、全く知らない人間が日本にたくさんいるということに驚いた。だからこそ、僕たちが生きた時代とはどういうものだったかということを、ドラマで見せたかった」「もし争い戦えばどういうことになるかということを今世紀の戦争が貴重な教訓を残しています。だからこの二つの民族と国家は、決して戦ってはならない。どんな難しい状態になろうとも、仲良くしなければならない。それが日中友好の原点だと思います」
ミュージカル『李香蘭』は91年1月東京で初公演、年間公演回数184回、観客は18万人に達し、大成功を収めた。
たまたま、日本を訪問していた中国政府文化部の賀敬之部長代理(大臣相当、歌劇『白毛女』の作者の一人)が観劇後、劇作家の浅利氏の勇気を絶賛したことが、ミュージカル『李香蘭』の中国公演の決め手となった。しかし、賀氏は2点ほど、補強のための考えを率直に示された。抗日戦の中で果たした八路軍と新四軍の役割と、周総理の言われた「前事不忘、後事之師(前事を忘れざるは、後事の師なり)」を強調されるよう提案したが、いずれも取り入れられた。
中国公演は、北京を皮切りに東北地方の3都市――長春、瀋陽、大連と決まったが、日本に対する一般大衆の気持ちを考え、記者会見や座談会を開き、さらにビデオ観賞、懇談や説得などの事前工作を行うことによって万全を期した。その結果、公演回数15回、観客2万という想像をはるかに上回る成果を上げることができた。
大連の千秋楽に、竹下登元首相と夫人が参加された。大連は筆者の出身地、北京から駆け付けてお迎えし、公演の成功を祝うパーティーで、文化部を代表してあいさつをした。
「中日国交正常化20周年を迎えるに当たり、両国人民があの戦争のもたらした不幸を回顧し、友好の歴史を振り返ることは、殊の外重要な意義を持つものと思います」「若い世代に対して正しい歴史観で教育して初めて、子々孫々仲良くすることができ、アジアと世界の平和と安定に有利であります」
その直後、国際映画週間の活動で北京を訪れた「李香蘭」こと大鷹淑子氏を、北京の崑崙飯店でもてなしたとき、思いがけなくも、席上氏は立ち上がり、丁重に「今日は中国政府関係者の皆さまを前にして、自分の過去を深く反省し、お詫び申し上げます」と言われた。とっさに、周総理の言葉を思い出して応じた。
「歴史を忘れず、未来志向でいきましょう」