「終戦の日」迎え歴史に真摯に向き合う
今年も暑い夏、8月になりました。新聞、テレビをはじめあらゆるメディアに「終戦企画」の記事や番組が並びます。8月15日には「全国戦没者追悼式」がテレビ中継されます。そんな8月が巡って来るといつも気持ちが沈みます。私たちが先の戦争、とりわけ「日中戦争」あるいは「太平洋戦争」の歴史とどう向き合うのかという命題が年を追って重く、深刻になっていると感じるからです。今稿では「私」という主語を明確にして語らなければなりません。
「戦争の悲惨」とは
読者の皆さんの中には、春から放送が始まったNHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』をご覧になっている方もいらっしゃるだろうと思います。6月の半ばころから時代は終戦後に入りました。街には傷痍軍人の姿があり、戦災で親を失った孤児、薄汚れた「浮浪児」たちの悲惨な様子が映し出されました。「子どもは戦争の一番の被害者だ」と語る言葉が流れる画面を見ながら考えさせられました。ドラマの世界とはいえ、私は、どうしても抜きがたい「違和感」に襲われ、立ち止まってしまうのでした。私たちは、何をもって被害者と言うのか、戦争を悲惨とするのかという問いが胸の奥底に深く滓のように沈んで心を重くするのでした。
かつて放送メディアで仕事をしていた私は、8月になると胸をよぎる仕事の「思い出」があります。職に就いて翌年のことです。当時山口県で勤務していた私は、先輩ディレクターと、いわゆる「終戦企画」の番組取材で岩国市に向かいました。今は米海兵隊航空基地のある岩国市は、「終戦の日」の前日、昭和20年8月14日、米軍機による空襲によって500人以上が亡くなったとされていて、14日に慰霊祭が行われ、夜には慰霊の盆踊りも行われていました。この一連の慰霊の様子を取材して番組にまとめるという企画でした。岩国へ向かう列車の中でのことです。
「戦争の悲惨って、何をもって悲惨と言うのでしょうか?」「一体どういうこと?」「8月に入ると新聞では、食べるものにもこと欠き戦争中いかに生活が苦しかったか。『すいとん』ばかりで、痩せこけた。もう戦争の悲惨を繰り返してはいけないといったような思い出話ばかりが載りますね。これを本当に戦争の悲惨というのでしょうか」「君は一体何が言いたいの」
仕事に就いてまだ日も浅い私でしたが、人物として信頼するディレクターだと感じていたので、思い余ってと言うべきか、日頃からの考えを正直にぶつけてみたのでした。
「メディアに出てくる戦争を回顧する話は全て自分たちの暮らしがいかに厳しかったか、辛かったかという『思い出話』ばかりですよね。それが悲惨なのでしょうか。日本軍によって殺された人々の悲惨はどうなるのでしょう。もちろん米軍の空襲によって亡くなった市民は気の毒な被害者かもしれませんが、加害の側の日本および日本人の責任を置き去りにした『終戦番組』ばかりを作っていていいのでしょうか。日本人の悲惨を言う前に、日本の侵略によって命を奪われ、住む土地もなにもかも奪われた中国の人々の悲惨をまず語らなければならないんじゃないでしょうか……」
列車の中で向かい合わせに座った2人の間にしばらく沈黙が続きました。
「君のようなことを言う人間には初めて出会ったな。しかし、じゃあこれから行く岩国での取材をどうするかだな、問題は。どうしたらいいと思う、君は……」。職場では経験も浅くまだまだ未熟な私のもの言いを誠実に受けとめてくれたことで、日本のメディアにおいて加害について語ることがいかに難しいかは分かっているが、しかし、ここを打ち破らなければわれわれの責任は果たせないのではないかとも述べて、これから行く岩国での取材について議論を続けたのでした。ささやかな思い出ですが、仕事を通して「戦争」と向き合った最初の体験として記憶に刻まれています。
心に刻まれた加害責任
そこで、なぜ、私がこんな問題意識を強くするようになったかです。
戦後生まれの私ですが、比較的早く、子どもの頃に「中国との出会い」がありました。父の本棚にあったエドガー・スノーの『中国の赤い星』を手にしたのは中学生の頃でした。そして、学校で教えられる歴史とは異なる「ものの見方」との間で葛藤を覚えながら世の中について考える習慣が身に付いてしまいました。その最たるものは、この前の戦争は物量を誇る米国に敗れたという世の中の「常識」に対して、父が、「日本は中国の人々の抵抗に敗れたのであって、中国に対して侵略という間違った戦争をしたからなのだ。世の中では終戦というが、これは物事をあいまいにしてしまう言葉だ。中国人民の抵抗に敗れたのだということをはっきりさせることが大事で、敗戦と言うべきなのだ。間違った戦争をすれば必ず敗けるのだ」と語っていたことでした。
大学生になって、かつて中国で戦犯に問われ日本に帰国して「鬼から人間に生まれ変わった」と自身の罪を赤裸々に語り、若い世代に向けて「中国への侵略の銃を取ってはならない」と全身、全霊をふり絞るように語り続けた元日本軍下級兵士の塚越正男さんに出会いました。東京下町で、一人で、鉄材の加工を営む自宅をお訪ねして、塚越さんが切実な悔恨とともに語る、まさに「血の叫び」というべき真情の吐露を聴きながら、私たちが向き合うべき戦争の悲惨とは何であるのか、そこでの私たちの責任はどうあるべきかについて深く考えさせられました。
同時に、その頃、日中国交正常化前の60年代半ばでしたが、中国事情に通じている人から、戦後20年を経てなお、中国の街を歩くと10人に何人かは、かつて日本軍によって肉親の命を奪われたか、自身が体のどこかを損ない、その後遺症、障害に苦しんでいる人々と出会うと聴かされました。
こうした実体験に基づく話から、私には書物から得る知識よりも一層生々しく「日中戦争」の実像が見えてくるのでした。私の「中国との出会い」から心に刻まれた日本の加害責任は実に重く、ここを素通りしては中国と向き合うことができない、つまり中国と付き合う原点となる認識となったのでした。
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