中国と生きる私たちに問われるもの

2025-02-25 09:23:00

「なぜ私たちの中国認識はこうも難しいのだろうか」 

中国と向き合う営みの難しさを改めてかみしめ、反すうすることになりました。昨年12月の第20回「東京_北京フォーラム」の会場の一隅に身を置きながら、登壇する識者のお話、討論に耳を傾けながらのことです。 

今回の「フォーラム」のメインテーマは「多国間協力に基づく世界秩序と平和の修復に向けた日中協力」でした。各分科会ではそれぞれテーマ設定が行われていましたが、そこに通底するのは「日中が直面する困難を乗り越えて、未来への責任を果たすための対話」あるいは「日中両国民の理解と信頼の構築のために、実りある対話」という言葉に凝縮できると感じました。「直面する困難」という言葉に象徴されるさまざまな問題が日本と中国の間にはあるということ、依然として、というより従来にも増して、日中双方の国民の「理解と信頼の構築」が課題として横たわっているということだと思います。聴講しながら、こうした「困難」の足下に日中それぞれの認識に「断層」があることを痛感し、もどかしく思いながら、ここはしっかり深めていかなければと思いを新たにしたのでした。 

「新時代の社会主義」を理解する  

その際、中国が掲げる「新時代の中国の特色ある社会主義」への理解が現在の中国認識の鍵として大事だと、改めて思いました。これは、私たち日本人一般にとってはなかなか手ごわい問題です。まず、「社会主義」というものへの理解の難しさがあります。なにせ経験したことのない社会です。ある世代の人々の中には見聞の経験があるとしても、多くは旧ソ連東欧型の「社会主義」でしょう。そこに、「中国の特色ある」ということと「新時代の」という二つの「概念」が関わるのですからさらに難題です。 

そこで、まず社会主義です。ソ連の「解体」をもって社会主義は「崩壊」したのでしょうか。もはや社会主義は過去のものなのでしょうか。ここで問題を逆に立てて考えてみると違った世界が見えてきます。「資本主義は『勝利』したのか」と。「答え」がさまざまあることは間違いありません。ところが現代の資本主義の「本家」米国で、外交問題評議会の「フォーリンアフェアーズ」にブラウン大学教授マークブリス氏による稿「終末期を迎えた資本主義?」が掲載されたのは2016年夏のことでした。「現在の形態の資本主義はすでに行き止まりに直面している。知的に今後を悲観し、(新しい何かを巡って)意志をもって楽観主義をとるタイミングがあるとすれば、それは今しかないだろう」と論考を閉じています。これはほんの一例ですが、「資本主義の行き詰まり」を冷厳に認識する人々が出てきていることは見逃せません。世界は「行き詰まった」資本主義に代わる「新しい何か」を求めて模索を続けているというわけです。 

そこに中国の「新時代の社会主義」です。昨年の三中全会(中国共産党第20期中央委員会第3回全体会議)決定でも強調されているように「揺るぐことなく公有制経済をうち固めて発展させ、揺るぐことなく非公有制経済の発展を奨励支援リードし、各種所有制経済が法に基づいて生産要素を平等に使用し、市場競争に公平に参加し、法律による保護を同等に受けられるようにし、各種所有制経済の優位性の相互補完と共同発展を促す」として、公有制経済と非公有制経済をどう組み合わせ、どのような仕組みで動かせば力強く機能させることができるのかという命題の下で知恵を集めて社会主義の建設に取り組もうというのです。そこに「中国の特色ある」が加わります。私たちが旧来の「常識」で描いてきたソ連東欧型の「社会主義」とは異なる、中国の長い歴史、文化、伝統に根差す独自の社会主義、そして現代の時代にふさわしい社会主義の姿を創造的に切り拓いていく前人未到の「歴史的挑戦」に立ち向かっているわけです。 

では、中国の長い歴史に根差すというとき何を意味するのか、ほんの一例ですが筆者の読書体験をもとに挙げてみます。『改革方法論与推進方式研究』(邦訳『中国の経済改革_歴史と外国に学ぶ方法論』2020年)では「中国史における六つの重要改革」の章で「戦国商鞅変法 : 民が立ち上がることを信じた法家の改革」はじめ中国の歴史上における「変法」(改革)について詳細な考察が行われていて驚きました。「中国の特色ある」というとき、こうした実に深く、分厚い研究が重ねられていることを私たちは知っておく必要があると思います。 

また、「質の高い」あるいは「新たな質」と語られる中国の社会主義の新たな段階についての理解も重要になります。中国では今、経済、産業、環境生態系、文化そして暮らしに至るまで社会の全てにわたって「新たな質」への転換が始まっていることを知る必要があると思います。従来のGDP成長率の伸びだけを経済発展の指標とすることでは産業、経済の実態を捉えることにはならないのだろうと思います。 

もちろん、社会主義には賛同しないという考えもあるでしょう。しかし、世界には多様な考えがあり、多様な生き方があることを、私たちは知り、受け止めて生きていく必要があると思います。その際、私たちが暮らす資本主義社会は「行き詰まり」と「混迷」に直面していて、これからの在り方が鋭く問われる時代状況に立ち至っていることを知っておかなくてはなりません。より良く、誰もが安心して暮らせる社会とはどんな仕組みの社会なのか、中国の人々とは「登山口」は異なるとしても、英知を集め経験を交流し合いながら「より良き世界」という頂を目指すことが、21世紀の私たちに求められていることをぜひ共有しておきたいと思います。それが、現在の中国と向き合う大事な鍵となると考えます。中国と向き合うとき、その土台に「新時代の中国の特色ある社会主義」に対する深い認識がないと、向き合い方も的外れになるということなのです。 

「改革開放」をどう理解するか  

そこでもう一つ、前の課題と深く関わる「改革開放」についてです。今、中国に関わるさまざまなシンポジウムやフォーラムが開催されています。そこに足を運んだとき、名の知られた中国研究者から語られる、これまた考えさせられる言説に出会いました。「かつて抱いた中国への期待が失望と幻滅に変わった」というのです。「鄧小平氏によって『改革開放』の中国となり、これでわれわれと同じ民主主義、資本主義の社会になると期待したのに、それとは『真逆』に、共産党一党独裁、社会主義の国へ。失望と幻滅の国に変わってしまった」というのです。聞いていて言葉を失いました。この研究者の傲慢(ごうまん)だと批判するのは簡単ですが、同様の論調はあちこちで聞かれるのです。こうした言説がまん延する現状にどう立ち向かうのかです。ここでも鄧小平氏の「改革開放」について深く知ることが鍵となります。鄧小平氏はこう語っています。 

「われわれが行う四つの現代化について、人々は皆素晴らしいと言うが、一部の人が考える四つの現代化は、われわれの頭の中にあるものと異なる。われわれが考える四つの現代化とは社会主義の四つの現代化である。彼らは四つの現代化を言うだけで、社会主義については語らない。これは物事の本質を忘れており、中国の発展の道からも離れている」「社会主義の堅持は重要な問題である。もし、10億人の人口を有する中国が資本主義の道を歩めば、世界にとって災禍(さいか)となり、歴史は逆戻りし、長年にわたり後退することになる」(いずれも『鄧小平文選』1993年) 

「われわれは生産力と科学技術を発展させる実践、精神文明および物質文明建設の実践によって社会主義制度が資本主義制度よりも優れていることを証明し、先進的資本主義国家の人民に、社会主義は確かに資本主義より素晴らしいと認識させなければならない」(『鄧小平年譜』2004年) 

鄧小平氏が主導した「改革開放」について考えるとき、忘れてはならない重要な論点であり、私たちの中国観に関わる大事な視点だと考えます。 

「現代化」の歴史的意味  

さらに、こうした思考の基礎として、中国の「現代化」という言葉に込めた歴史、思想的な意味を読み取っておくことが欠かせないと考えます。すなわち、中国はなぜ「近代化」ではなく「現代化」という概念を用いるのかです。「近代化」という言葉には西欧化をもって近代化とする手あかのついた歴史がまとわりついているからではないかと考えるのです。とりわけ日本においては明治維新以降、とにかく欧化することが近代化することだという観念が染みついていて、遅れたアジア、先進の西洋という思考が浸透して、現在に至るもなおそれを乗り越えられないでいることは中国と向き合う際の重要な「分岐点」になると思います。「脱亜入欧」という言葉は過去のものだと言って済ませられない深刻な状況が日本にはあると言わざるを得ません。当然、この欧化をもって近代への入口とする考え方は中国にも思想潮流としてあったのだろうと思います。それを克服する過程が1949年の新中国誕生への道筋だったのでしょうし、その後も、中国の長い歴史に根差した内発的な力をいかに社会発展の太く力強い流れにしていくのか、曲折と苦労を重ねたゆえに、「近代化」ではなく「現代化」という概念で未来を構想するようになったのではないかと考えるのです。つまり、先進、後進の図式で近代化を描いてきた西欧中心の歴史観、文明観を脱却して、多元的な文明観、歴史観に立って中国を見つめることができるかどうか、依然として、われわれは試されているのだと考えます。 

前トランプ政権時代の出来事  

こうして考えを進めてくるとき、思い出すことがあります。それはまさに前のトランプ政権時代のことです。当時国務省の政策企画局長だったキロンスキナー氏のあるシンポジウム(2019年4月29日、ワシントンDCにて)での発言です。当時「サウスチャイナモーニングポスト」の記事で知ることになって詳しく調べたのでしたが、その発言から一部を引くと、「米ソ冷戦時代、われわれの戦いはいわば西側家族間の争いのようなものだった。しかし、今後アメリカは史上初めて、白人国家ではない相手(中国)との偉大なる対決に備えていく」「中国はわれわれにとって、長期にわたり民主主義に立ちはだかる根本的脅威である」「米中関係にとって、貿易摩擦が唯一の問題ではない。長い目で見ると、貿易は中国との最大の問題ではなくなるだろう。冷戦時代にジョージケナンが当時匿名の『X書簡』論文で対ソ封じ込めを提唱した例に倣い、米国務省は現在、中国を念頭に置いた『X書簡』のような深遠で広範囲にまたがる対中取り組みについて検討中である」 というのです。これを目にして驚いたことを今も鮮明に記憶しています。「白人国家ではない」うんぬんはさすがに米国でも「現代の黄禍論か」と問題視されました。その年の夏、事実上の更迭で彼女は国務省を去りました。 

しかし、ここにとどまりませんでした。もう政権末期というべき頃のことです。国務長官のポンペオ氏がカリフォルニア州にあるニクソン図書館の庭園で演説し「自由世界が中国を変えなければ、中国がわれわれを変えるだろう」と語ったのでした(2020年7月23日)。こうした思考が、現在の日本にもないとは言えないことが深刻です。皮肉なことに図書館には、かつてニクソン大統領が中国を訪問して毛沢東主席と会見した際に握手した二人の大きな写真が飾られてありました。 

「東京_北京フォーラム」における日中の識者の発言、討論から、思考がさまざまに巡ったことのほんの一端だけですが申し述べました。振り返ってみると、こうした「想念」は、「フォーラム」における日中双方の識者の発言に垣間見える「断層」について考える際にも無縁ではないと思えるのです。 

世界が大きく変わる時代を生きる私たちが中国とどう向き合うのか、われわれの中国観が、依然として鋭く問われ続けていることを痛感します。 

木村知義 (きむら ともよし)   

1948年生。1970年日本放送協会(NHK)入局。アナウンサーとして主にニュース・報道番組を担当し、中国・アジアをテーマにした番組の企画、取材、放送に取り組む。2008年NHK退職後、北東アジア動態研究会主宰。  

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