文・写真=須賀努
有名メーカーが注目
誰が名付けたのかは分からないが、世界の三大紅茶という言い方がある。もちろん異論は多々あるのだが、一応インドのダージリン、スリランカのウバ、そして中国安徽省の祁門紅茶となっている。紅茶好きの人でも、インドやスリランカの紅茶は分かるが、なぜ中国の紅茶が入っているのか分からない、と言う人がいるから面白い。世界的にも紅茶の発祥国が中国だ、ということが認知されていないと感じる瞬間である。
しかし中国紅茶は福建省の正山小種に始まるといわれているのに、なぜ祁門紅茶(祁紅)が世界的に有名になったのだろう。1915年の万博で金賞を受賞して名をはせた、とも聞いていたが、この連載で見てきたように、この万博では実に多くの中国紅茶が賞を得る栄誉に浴している。何も祁紅だけが特別ではないと思われるのだが。
1875年、福建省から製造技術が伝わり、それまでの緑茶から紅茶を作り始めたといわれる祁紅。この茶がどのようにしてこの地で作られるようになったのかは諸説あるようで、その辺もちょっとミステリアス。しかもわずか40年後の1915年の万博でその名前が世界中にとどろき、米国や欧州から注文が殺到したといわれ、この高貴な香りが飲む者を魅了したというのはすごい! 1920年代にはこの地に140軒以上の茶農家が存在したということから、その発展ぶりがよく分かる。
かの世界的な紅茶メーカー、トワイニングが1912年から祁紅を毎年買い付けていたという話もあり、既に万博前から注目銘柄だったことになる。そういえば、もう一つの世界的なメーカー、リプトンの中国本社は現在安徽省合肥にあり、近々黄山に移転するとも聞いている。このような大企業に認められたことが、この紅茶の名を世界中に広めたことは間違いない。
祁門近郊の茶畑
32年には、中国茶業の近代化に尽くし、茶業界で当代茶聖と呼ばれる呉覚農が、安徽省立茶業改良場の場長として赴任したことも祁紅の発展を促した。呉覚農といえば、茶業の近代化、機械化を推進した人物として知られており、この山深い祁門でも、製茶機械を積極的に導入し、生産効率向上に努めたという。同時に茶農家が自ら製茶し、茶を販売する体制を作り出し、中間業者を排除、農家の労働意欲を高めていったものと考えられる。生産量の向上が祁紅の名をさらに高めたのだろうか。
新中国成立後も、中国茶の代表銘柄として、重要輸出品となった祁紅。思い起こされるのは、改革開放直後、75歳の鄧小平氏がこの地を訪れ、祁紅を褒めたたえ、1980年代初期の香港をめぐる中英交渉の中で、交渉相手だった英国のサッチャー首相に祁紅を贈ったと伝えられたことだった。80年代にこの紅茶を求めて祁門を訪れたというある日本人が、「実に素晴らしいフルーツの香りがする紅茶で、価格も今に比べれば格段に安く上質の茶が手に入った。今ではこんな品質の物はなかなか手に入らない」と嘆いていた。
品質の維持向上が使命
6月下旬、その祁門に初めて行ってみた。景勝地、黄山までは高速鉄道がつながっている。そこから車で60㌔。標高600㍍の町には連日雨が降っており、今回訪れた工場脇を流れる川は増水し、もう少しで冠水するまでになっていた。結局今回は、山間部の茶畑付近の道路が濁流にのまれ、見学することはかなわなかった。「最近の天候不順は本当に異常で茶作りに大きな影響が出る」との声を地元で聞いた。
90年代に紅茶生産が停滞した国営祁門茶廠。改組などを行ったが、その流れを止めることはできず、2005年にはついに閉鎖され、その工場の設備は浙江省の祥源集団に売却された。祁紅茶業という名前で現在は運営されているが、旧工場はすでに解体され、人材も全てが残ったわけではなかった。大資本の投資により、祁紅はよみがえるのだろうか。
ただこの茶工場の試飲室に入ると、特に手摘み茶葉で作った最上級の祁紅の香りが芳しく、これまでの紅茶の旅で最高の品質に思われた。やはり祁紅はすごい! と思う瞬間だった。今回われわれをわざわざ案内してくれた85歳の閔宣文氏は、1958年に国営工場に入って50年を祁紅にささげ、祁紅製作伝承人に認定されており、現在も同社顧問として、製茶指導を行っている。そのノウハウとパワーに、将来の可能性を見る思いがした。
祁紅製作伝承人の閔宣文氏(右)
いまだに産量の70%を欧州などに輸出している祁紅だが、折からの紅茶ブームで、国内需要が急速に高まってきている。ブランド品に関しては「茶葉価格は高ければ高いほど良い」といった風潮まで見られ、まるでバブルのような様相を呈しているが、その品質を維持向上させることが、中国の代表である祁紅の使命ではなかろうか。
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