安定的発展に必要なもの 平和友好条約の意義を考える
文=陳言
筆者は中日平和友好条約が締結された1978年に大学に入学した。それまではずっと、入隊してソ連修正主義や米帝国主義と戦う軍人になりたいと思っていた。大学に入る前は学校でほとんど勉強せず、中ソ関係が極めて緊迫していた時期は北京から河南省へ行って農業に従事し、北京に戻ってからもたいてい工場の「見習い工」をやっていたから、勉強する時間などなかった。
個人の状況がそうなら、国もそうだ。平和がなく不安定な国際情勢で、国の経済が順調に成長することはない。中日両国間に平和と友好があってこそ、発展のチャンスが生まれる。今日、「経済安保」や「戦後最大の戦略的な挑戦」などの対立を強調する概念を耳にしたとき、45年前に確立した両国関係の原則を振り返り、45年間の経済発展を整理すると、平和と友好の重要性への認識が深まるだろう。
日本の長期的発展と社会的安定
第2次世界大戦後の世界経済を見ると、欧州の経済が爆発的に成長した30年間(栄光の三十年間)が1975年に終わり、欧州の成長とほぼ同じ歩みをたどった日本は、欧州の約20年後の93年に成長期が終わった。93年以降の30年間は、一部の日本メディアで「失われた30年」と呼ばれるが、現在の中国の多くのパーソナルメディアには、「失われた30年」といっても日本社会は波乱を経験せず、大量に蓄積された資本をゆっくり吐き出しているから相当安定していると見える。
景気の循環と極度に安定した社会が日本と欧州に大きな違いを生み出した。78年に締結された中日平和友好条約は日本に安全な国際環境をもたらし、東アジア地域では欧州のような社会的混乱も起きず、コソボ紛争やロシア・ウクライナ衝突のような戦乱も起きてない。日本は政治の重点を経済に置いて、経済成長に集中し、それによって国民の生活もしっかり保障された。
1894年から1945年までの50年間、日本は中国に対し繰り返し戦争を仕掛け、中国に史上最も深刻な破壊をもたらした。戦後、日本はゼロからスタートし、平和が戦後日本の経済成長を支えた。特に中日の平和と友好は長期的に安定した日本の経済成長を支える重要な柱の一つとなった。
日米同盟は中日平和友好条約締結前にすでに確立しており、過去45年間、中日の平和と友好を基本的には阻むものではなかったが、この2年余り、途端に何よりも優先されるものになったばかりか、中日の平和と友好の足かせになろうとしている。日本で突然飛び出した「台湾有事」や「戦後最大の戦略的な挑戦」などの概念は、最近はやりの「新しい戦前」という言葉でまとめられるのではないかと思うが、その言葉の意味ははっきりとは分からない。
この30年間、日本の成長に以前のようなスピードがないのは確かだが、日本国民の生活が目に見えて低下したわけでも、欧州のような社会的混乱が起きたわけでもない。
極度の安定は他の面でも見られる。2011年、東京電力福島第一原子力発電所でレベル7の事故が起きた。同じレベル7の事故はソ連崩壊の序曲となったが、日本の反原発は主流にならず、「処理水」と名付けられた核汚染水の排出に対して、日本のメディアはほぼ異口同音に理解を示している。日本がわずか5年で防衛費を1・5倍に増やそうとし、軍拡し戦争に備え、政治家たちが中国を「仮想敵国」と公言していることに対し、世論は取り立てて大きな異議を唱えていないようだ。
変わらぬ日本の資本と技術の重要性
中国は文化大革命が終わり、反帝国主義・修正主義が人々の関心事ではなくなり、経済が日々の取り組みの中心となった。安定した中日関係は、中国に当時極めて貴重な資本や技術を日本から獲得させただけでなく、中日貿易を通して国際交流の経験を積ませ、その後の中欧、中米貿易の下地をつくった。
平和の到来、とりわけ日本という国との平和が保証されることは、1894年から1945年までの中国が日本に侵略されていた歴史を深く知る中国人にとってその意義はひとしおだ。戦争の残酷さと平和の重要性は身に染みている一方、日本の資金や技術へ感謝する気持ちも本心からくるものだ。低金利貸付などの日本の政府開発援助(ODA)は恵みの雨であり、中国の大地にまかれた日本の技術は大きな成長を遂げた。一般人の生活も一変した。筆者のように80年代に大学を卒業した人間は、結婚前に自転車を1台持っているだけで自慢できたものだ。しかし2010年以降に大学を卒業した人間にとって、結婚前に乗用車を持っているのは当たり前となった。平和は膨大な物質的な富をもたらしたというわけだ。
中国は1980年代に日本の鉄鋼技術を、90年代には家電を導入した。2000年代に入ると日本の自動車メーカーが中国に合弁工場を設立し、10年代には小売業も中国市場に参入した。中国経済の発展のどの段階でも日本の協力があった。中国経済のアップグレードに日本は欠かせず、20年代も依然としてそうだった。
しかし日本の経済安保政策実施後、中国経済がアップグレードする中で、以前のような前向きな協力がどれほどできるだろうか?言い換えるならば、中日平和友好条約の原則はまだ維持し続けられるだろうか?今こそ、これらの問題についてわれわれは真剣に考えなければならない。
バランスが崩れた交流方法
1980年代、筆者は日本人訪中団を接待する業務に何度も参加したが、日本に行ったことはなかった。日本留学を決めたとき、北京から東京行きの片道切符には家族の貯金ほぼ全てが込められていた。その頃は、中国に来る日本人が多く、中国からは出張や公務以外で日本に行く人間はほとんどいなかった。
それから40年後、2021年に日本に行った中国人留学生は11万人に上るが、中国へ行った日本人留学生は54人だ(今年10月31日の朝日新聞の社説から)。新たなアンバランスが中日の相互理解を相当にゆがめてしまっている。海外旅行者の人数を見れば、中国の訪日観光客と日本の訪中観光客のアンバランスも同様に長期間続いていることが分かるだろう。
平和と友好があってこそ、中日はそれぞれの経済を長きにわたって安定して発展させられる。対立と対抗を乗り越え、中日平和友好条約を回顧し、両国の交流活動に積極的に参加しなければならない。
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