山道を開削した現代版愚公 未来に向け山村に産業興す

2021-05-14 14:27:29

 

重慶市の下荘村党支部書記の毛相林さん

 

戦国時代(紀元前475~前221年)の思想家列子が残した寓話に「愚公山を移す」がある。愚公が子どもたちを率いて山を崩して道を切り開き、人の力では不可能だと他人に笑われても、根気強く掘り進めて子孫代々掘り続ければいつか願いはかなうと主張したという話だ。時代は変わって現代、中国共産党員の毛相林さんは村民を率いて断崖絶壁を切り開いて道を造り、「現代の愚公」と呼ばれている。

発展から取り残された村

重慶市巫山県の小三峡の奥地に、地元の人々から「天へ続く断崖絶壁の道」と呼ばれている険しい山道がある。その先にある下荘村は標高1000以上の切り立った山々に囲まれ、深い井戸の底にあるようなことから、「下にある村」という意味の「下荘」と呼ばれるようになった。山道が整備されていなかった約20年前まで、村はカルスト地形が生み出した巨大な穴の中にとらわれており、外界から隔絶され、巫山県で最も貧しい土地だった。村民は外出する際、絶壁をよじ登るしかなく、県内までの往復に4日かかった。

1997年、当時38歳だった毛相林さんは下荘村党支部書記兼村民委員会主任の職務を引き継いだ。その時、毛さんは大まかな統計を取った。当時、約400人の村民の中で、村から出たことがない人が150人以上、舗装道路を見たことがない人が160人以上、山越えで転んでけがをした人が60人余り、けがで障害が残った人が15人いた。「飼っている豚を売ってお金にするため、解体したものを背負って小道に沿って山を下り、生産や生活に必要な物資も背負って山を登って持ち帰っていました」と毛さんは振り返る。山を出て舗装道路を見た村民は、村に戻るといつも周囲の人々に舗装道路がいかに平らで、自動車がどれだけ便利かを語った。毛さんは隣村で多くの村民が家を建て替え、テレビを買い、豚や野菜を自動車で直接運べるようになった変化を目にし、「この村に道路が開通したからだ」と、うらやましくもなりやるせなくもなった。郷(村より上の行政単位)が建設を計画した道路が下荘村を経由しておらず、郷の役人に「下荘に道路を敷くのは現実的に不可能だ」と言われたからだ。毛さんと下荘の人々は失望の中、道路への憧れを日増しに強くしていった。

「改革開放が始まって間もなく20年になるのに下荘が昔のままでは、村の党支部書記として村民や党組織に顔向けできないと思いました。当時、村に道路を敷くという構想はありましたので、どんなに困難でも先頭に立って進むしかないと決意しました」

 

完成した全長8の道路

 

村民全員参加で工事を分担

断崖絶壁の上に道路を造ると聞いた村民は盛んに議論し、疑う声や心配する声、さらには毛さんがおかしくなったという声も上がった。「座して待つのではなく、自分の手を動かし、山を切り開いて道を造ろう」と呼び掛けた毛さんは、人々にこう説明した。「道路は長さ7~8を予定しており、20年で開通する予定だから、1日1切り開くだけでいい。私たち約400人が一丸となって努力すれば道路はきっとできる。道路なくして未来なしだ」。紆余曲折を経て、村民全員が道路開通のための資金を出すことを決めた。1人ずつ10元を出し合い、3970元が集まった。さらに各家が豚を毎年1頭売れば、3万8400元の資金ができる。またこの時、下荘村の視察に来た巫山県農業局の朱崇軒局長は、村民の決意に心打たれ、すぐさま10万元分の物資を支給し道路の整備工事を支援した。工事が始まると村民全員が参加し、一つまたは複数の世帯が一つのグループをつくり、一つあるいは複数の作業を担当した。男性は山を切り開いて道を舗装し、ロープを壁にくくりつけて穴を開け、そこにダイナマイトを設置した。女性は食事作り、物資の運搬、耕作などを担当した。道路建設のために毛さんは出稼ぎに行っている村民を呼び戻し、村から引っ越した村民にも戻って手伝うよう説得した。そのようにして毛さんの働き掛けの下、村民は7年かけて山の中腹に道を切り開いた。2004年4月、幅2余り、長さ8の「天へ続く道」が開通し、下荘村から郷までの所要時間が5時間から30分に短縮した。

開通はゴールではなくスタート

道路の開通によって、村民は県内との行き来を当日のうちにできるようになった。それで多くの人々が出稼ぎに行き、生活費をまかなった。村には産業がなく、自給自足するしかないため、村民は相変わらず貧しいままだった。09年、毛さんは他の村が養蚕業を発展させて豊かになったのを見て、村民に桑の木の植樹と養蚕をするよう呼び掛けたが、標高が高く気温が低い土地は養蚕に適さず失敗した。落ち込んだ毛さんは村民大会で深く反省した。翌年、県内で食べたとても甘いスイカにまた心を動かされた毛さんはスイカ栽培を考えた。しかし今回は慎重を期し、農業技術者に教えてもらい、まずは自分一人で栽培を試みた。

毛さんのスイカは無事に育った。彼が県内でスイカを売って儲けを出したことで、村民の確信が大いに高まった。彼の指導の下で下荘村は初めてまともな産業を発展させ、現在村のスイカ畑の面積は200ムー(1ムー約0067)に及ぶ。14年に農業の専門家を村に招いて細かい調査と分析をした結果、ミカン、桃、スイカの三つの栽培産業とエコツーリズムを発展させることを決めた。極度に貧しかった下荘村は、15年に巫山県で率先して村全体の貧困脱却を実現し、昨年の村民の純収入は道路開通前の40倍以上の1万3784元となった。

道路が開通し、生活に余裕ができたが、60歳を過ぎた毛さんは相変わらず忙しい。今は村の外で働いている若者を呼び戻す施策や農村振興の方法を考えている。毛連長さん(29)は長年他の土地でスイカを栽培し販売していたが、昨年の春節(旧正月)に帰省した際、毛さんに村に留まるよう説得された。村の産業が日増しに発展する様子を見た彼は、自分だけが残るのではなく、恋人と話し合って一緒に村に戻り、特産品を販売する通販サイトを共同運営している。彭淦さん(27)は下荘村から出た第一陣の大学生で、昨年村に戻って教師になった。この2年で村に戻る人々がどんどん増えている。200人余りいた出稼ぎ労働者のうち、100人余りが村に戻って自分の仕事を持つようになった。

今年3月に開かれた第13期全国人民代表大会第4回会議は国民経済社会発展第14次五カ年計画を採択した。「農業農村の優先的な発展を堅持し、農村振興を全面的に推進する」ことを打ち出した同計画の実施に伴い、下荘村は中国の数多くの村々と共により素晴らしい未来を迎えるだろう。(高原=文  新華社=写真)

 

人民中国インターネット版 202156

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