村おこしの若きプランナー 現地から産業と文化を発掘

2022-07-28 16:47:13

2018年に中国で農村振興戦略が全面的に実施されてから、広大な農村地域は若者が人生の価値を見いだす新しい注目の場所になり、村駐在プランナーという新たな職業が生まれた。若いプランナーたちは現地の村人と共に暮らし、「村の新たな一員」の視点から現地の発展の潜在力を掘り起こし、リソースを整理統合し、村人のニーズに沿い村の実情に合った発展計画を打ち立て、村の発展に深く関わり、現地に優れた発展メカニズムを構築した。 

震災復旧の経験から誕生した職業 

中国で政府がプランナーをして、農村の環境ひいては産業の発展を計画・デザインする方法は、四川省の成都から始まった。当時、中国の農村計画は急速転換期に入っていて、外部から干渉する従来のトップダウン方式では各方面の要求を満たしづらくなっていた。村駐在プランナーの登場は、実情と村の要求を融合させ、プロジェクトの設計、実施、管理などで全過程伴走型サービスを実施し、その土地の状況に適した方法で農村建設をサポートすることが可能になった。 

2010年、成都は08年5月12日に起きた汶川大地震の再建の経験を掘り下げてまとめた上で、村駐在プランナーという職業をつくり出した。当初の動機について、成都市計画・自然資源局の責任者は、「新時代で農業・農村の現代化が加速する中、都市計画の理念を機械的に導入することはできず、農村には独自の計画方法が求められた」と述べた。 

同年10月、成都は統一した基準により募集・選抜した100人の村駐在プランナーを正式に職場に派遣した。彼らは郷・鎮政府機関を代表して農村計画を立案し、郷・鎮の建設プロジェクトのために技術面の厳重な検査を行う。 

16年、西南設計院で働く曾文婷さんは村駐在プランナーになった。曾さんは仕事の経験をこうまとめた。「設計院と村駐在プランナーは仕事の内容があまりにも違いました。以前はだいたいオフィスで設計図を描き、一人で3、4件のプロジェクトを同時進行していました。鎮の全体計画を立てる場合、現地に1、2回行くだけで済みます。現地の本当のニーズ、発展の現状、未来に向けた発展の糸口に理解が足りないと、オフィスで作成した設計図はしばしば現実とかい離します。しかし村駐在プランナーが相対するのは生きた人々であり、一般家庭を訪れたり田畑を歩き回ったりして彼らのニーズを理解しなければいけないのです」 

「村人は、自分の家を自分の好きなように直してはいけない理由を理解できませんでした。汚水処理場の立地の選定や第1、2、3次産業の構造をどう構築するか、よく分かっていない幹部もいました。外から来たプロジェクトチームは、郷・鎮にどんな特徴があり、どのようなものを求めているのかが分からず、投資建設するプロジェクトが計画全体の中でどのような位置付けにあるのかなど、全てに私たちが介入する必要がありました。計画理念が徐々に村に浸透していくと、私たちは『橋渡し役』となり、プロジェクトチームと郷・鎮、計画部門の間にも理解が深まりました」 

産業と文化を共に発展 

「よそ者がどうしてうちの村のことに首を突っ込むんだ?」。初めて村に来た若いプランナーたちはだいたいこのような質問をされる。「だから村に来て最初にしたのが、人付き合いでした」。そう話すのは、中国都市設計計画研究院(北京)計画設計社で働く1990年代生まれの村駐在プランナーの劉琳さんだ。 

2018年6月に安徽省大別山にある万澗村にやって来た劉さんは、伝統村落保護プロジェクトの現場責任者となり、今では「村の新たな一員」となっている。 

万澗村は長い歴史を持つ伝統的な集落で、70棟余りの昔ながらの住居は皖西大屋(皖は安徽省の別名)の典型で、うち2棟が省級文化財として保護されている。劉さんが村に来たばかりの頃、建物の状況は深刻で、雨漏りしていない所がないほどだった。山に囲まれ農地が少ない村では、多くの若者が出稼ぎに行き、老人と子どもが家に残る空洞化現象が進行していた。調査と研究をして、劉さんは村民に家屋や土地、山林を担保にしたり、資金を出し合ったりして協同組合をつくり、老朽化した建物を修繕するとともに村内の養殖業と観光業を発展させることを提案した。この提案は大きな波紋を呼び、村人たちの間で議論が紛糾し、様子見をする者や拒絶する者、さらには劉さんを詐欺師だと疑う者すら現れた。 

 

楊家旧宅で伝統的な農業用具の展示を企画し、村人の家を訪ねて古物を収集する劉さん(右) 

「結局のところ、みんなからの信頼が足りなかったんです」と劉さんは理由を探し当てた。それから彼女は村人たちと一緒に村内の金糸皇菊(お茶用)の栽培と収穫、袋詰め、販売の仕事に参加し、誠実な女性として村人から徐々に受け入れられた。信頼関係を築くのが仕事の第一歩だ。村人が劉さんの話を聞き、自分たちの意見と要望を提出したことで計画案は繰り返し改善され、ついに村人たちから同意を得た。 

古くからある集落の持続可能な発展を実現する上で、外部からの「輸血」だけではなく、内部からの「造血」が必要だと劉さんは考えた。このため、彼女は万澗村で農民専業協同組合「ノスタルジア」を設立し、金糸皇菊の栽培を推し進め、歴史的集落の文化的な観光業を発展させ、産業の育成によって村を保護することを呼び掛けた。現在、彼女の提唱の下、すでに100世帯余りの村人が家屋、土地、山林、または現金の形で出資している。協同組合は村人を率いて村の3割以上を占める耕作放棄地を整地し直し、金糸皇菊など十数種類のエコ農作物を商品化し、年間売上高が80万元を超えた。その他、協同組合では資金を調達して、放置されている伝統的建造物の譲渡と修繕によるリフォームを後押しし、倒壊寸前のあばら家をユースホステルや図書館、民俗博物館や老人ホームなどに改造している。 

 

万澗村の芮家旧宅(清代)でその保護と利用状況を紹介する劉さん 

村の変化で人の考え方も変化 

劉さんから見て、日々の物質的な豊かさが向上したことは喜ばしいことではあるが、それ以上に現地の村人の精神面で変化が起きたことに満足感を覚えた。 

万澗村は第5期国家級伝統村落に指定されており、長い歴史の中で培われてきた文化が残り、古い戯楼(劇場)や邸宅のほか、地方劇の黄梅戯、竹製のランタン、獅子踊りなどの民間伝統にも長い歴史がある。だが急速な都市化に押しやられ、村の伝統文化は徐々に人々の日常生活から忘れられていた。 

そのため劉さんと彼女のチームメンバーは20年に村の女性を50人ほど集め、主に村の女性や児童、高齢者のための文化活動を積極的に行う公益団体「澗行者」農村サービス発展センターをつくった。メンバーは他の土地で交流や研修をした後、村に広場ダンス、腰鼓、カラオケ、黄梅戯などのサークルをつくった。詩の愛好家たちは自発的に詩歌サークルをつくった。その中で村人たちは徐々に伝統文化や民俗芸能に興味と自信を再び持ち始めた。 

農村プロジェクトの立案とスタート段階から、劉さんら村駐在プランナーは全過程に携わり、プロジェクトの成長を見守る。彼女らが去った後、それらのプロジェクトをどう運営し続け、発展させられるのか?これについて、劉さんと仲間たちは村民団体の育成に重点を置いている。現在、「澗行者」は主に現地の女性によって運営されている。彼女らはリソースをマッチングし、研修を企画し、改造プロジェクトを推し進め、活躍している。「今では村人たちを励まし、多くの物事を自分の力で解決させています。私たちがタイミングを見計らって一歩下がり、村人たちに自分から前に出ることを学ばせて、農村計画が真に活気づくのです」 

 

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