貴州奥地からカタールへW杯で旗を掲げた小学生
高原=文 新華社=写真
カタール出発前にクラスメートから応援を受ける金さん
昨年12月18日、2022FIFAワールドカップ・カタール(W杯カタール大会)の決勝戦がルサイル競技場で行われ、ミャオ(苗)族の金粲璨(12)さんが中国から来た6人のフラッグベアラーの一人として決戦の地を踏んだ。昨年の夏休み、貴州省黔東南ミャオ族トン(侗)族自治州の小学校サッカー大会に出場し終えた金さんは、父親からW杯カタール大会決勝戦のフラッグベアラーに選ばれたことを教えられた。そのときから、彼はその日が早く訪れることを指折り数えて待った。数万人の観客の歓声を浴びて金さんは緊張したが、「こんなに大勢の前で旗を掲げて入場できる」自分を誇りに思った。唯一の心残りは、彼の心のアイドル、クリスティアーノ・ロナウドが決勝戦に出られなかったことだ。
山中にサッカーブーム
金粲璨さんの故郷貴州省黔東南ミャオ族トン族自治州の丹寨県は人口17万9000人のうち少数民族が90%近くを占め、総面積の76%が山地だ。山中に暮らす子どもたちが外の世界を見る機会はめったにない。カタール以外で金さんが行った一番遠い場所は、丹寨県から車で2時間以上かかる州都の凱里市だけだった。
17年に丹寨県にビッグニュースが舞い降りた。万達グループがFIFAとサッカープロジェクト「星々の火」の提携を結び、18年のW杯ロシア大会の開幕戦でFIFA旗を持って入場する役目に丹寨県の6人の少年を選んだのだ。90年近い歴史を持つワールドカップで中国人のフラッグベアラーが誕生した瞬間であり、丹寨県で大きな話題になった。
当時フラッグベアラーを務めた楊昌勝さんは、「サッカーブームが巻き起こりました」と振り返る。ロシアから丹寨県に帰ってきてから、親戚や友人の多くがサッカーに興味を持った。「県内にサッカー場が次々とでき、興味を持っていた人々が次第に積極的にサッカーをするようになりました」
金粲璨さんの父親の金潤権さんは丹寨県の高校の化学教師で、サッカー好きでもある。「農村で育った私は高校に入るまでサッカーをしたこともありませんでしたが、やってみてから大好きになり、ファンになりました。当時は県城(県政府所在地)にちゃんとしたサッカー場がなかったので、原っぱやぬかるみ、セメントの上でサッカーするしかなかったです」。6人のフラッグベアラーがロシアから帰ってきたとき、「さまざまな学校でサッカーと体育が重視されるようになり、将来の選手が多数育ちました」と語る。現在、県城には大小合わせて20近くのサッカー場があり、子どもたちのためにより良い環境が整えられている。
自分がサッカーファンだったから、息子が3、4歳の頃にはもうグラウンドに連れて行ってボールを蹴らせたと金潤権さんは言う。息子が6歳になると、サッカー用具一式を買い与えた。そして息子がサッカーを好きになると、地元のサッカーファンがつくったクラブに入れ、ある程度専門的な訓練を受けさせた。
金粲璨さんが本当にサッカーを好きになったのは、2018年のW杯ロシア大会のアジア予選を見てからだ。「父に買ってもらった武磊(男子サッカーの中国代表選手)のレプリカユニフォームを着て、父と一緒に中国チームを応援しました。その年に県内のクラブに入り、正規のサッカートレーニングを受けるようになりました」。サッカーを習ってから性格が明るくなったのが最大の変化だと金粲璨さんは感じ、サッカーの闘争心を自分の生活にいつの間にか生かせ、失敗と成功によりうまく対応できるようになったと語る。
クラブに入ってから、金粲璨さんは週末も夏・冬休みもサッカーに費やした。トレーニングに励み技術を上達させた結果、彼は学校のサッカーチームのキャプテンになった。「サッカーをするのは楽しいです。1週間ボールを蹴らないと元気が出なくて、いまは週5回はしています」
学校にもサッカー好きのクラスメートが多いと言う。「60人いるクラスのうち、半分がサッカーをしていて、女の子もたくさんいます。どのクラスも同じ状況で、グラウンドでサッカーをする場所が足りないぐらいです」
2017年、金粲璨さんは新しいキャンパスに移ったばかりの丹寨県城関第一小学校に入学した。「当時はグラウンドが未舗装でデコボコしていて、サッカーゴールも木製でした。それでも多くの人がサッカーに興味を持って、徐々に仲間が増えました。この状況を見た県がサッカー場をつくり、試合や大会が開かれるようになったんです。サッカー場ができてから、サッカーをする人がますます増えました」
試合前のウォーミングアップをする金さん(中央)
小学生で世界の舞台へ
W杯カタール大会が始まる数カ月前、「星々の火」プロジェクトが中国から新たなフラッグベアラーたちを選抜した。金潤権さんによると、現地の教育機関が県内のサッカーコーチに連絡を取り、子どもたちに自分とサッカーをテーマにした作文を書かせるよう求めて来たという。「フラッグベアラーのことは私たちも知りませんでした。息子は自分がサッカーを好きになって、練習を経てキャプテンとして自分のクラスが小学校サッカー大会に出たことを作文にして提出したのです。その後、その作文がFIFAの目に留まり、息子は選抜を通過し、フラッグベアラーとしてワールドカップに行けることになりました」
金粲璨さんが書いた作文は次のような内容だ。
「8歳のときから、県内のいろいろなサッカーの練習に参加しました。暑い日も寒い日も、どんな天気でも続けました。ある夏の日、肌が真っ黒に焼けて親戚や友人に笑われました。真っ黒な顔に白い歯がのぞいているのは確かにとてもおかしいです。何年も練習して、基礎をある程度マスターしました。でも新型コロナのせいで通常通りの訓練を受けることがほとんどできなくなりました」
「試合に出るようになったのは2020年からです。その年に出た『雲上丹寨全国青少年サッカー招待試合』がネットで生中継されたので、自分がサッカー選手になったと感じ、とても興奮しました。重慶と貴陽のプロチームと戦ってから、僕たちは実力差を感じ、人生初の『銅メダル』を手に入れました。また同年の学校の運動会で、クラスの旗手とサッカーチームのキャプテンとして率いたチームは3位、総合成績で2位になりました。その運動会で、旗手としての誇り、キャプテンとしての責任感、クラスが一丸となる栄誉を手にしました。ゴールを決めたときの歓喜の祝いも、PKを外したり自殺点を決めたりしてチームメイトから責められ、『駄目キャプテン』となじられたときに出た涙も、みなサッカーの魅力でしょう。これが僕をさらに成長させてくれました」
息子がサッカーに熱中するあまり学業をおろそかにする心配はないと金潤権さんは語る。「高校教師の私から見て、サッカーの練習によって息子の集中力と意志力が育まれました。大学入試まで十数年間闘い続けることになりますが、最後に試されるのはやはり意志力です」
W杯カタール大会に行けた息子を金潤権さんは少しうらやましく思っている。「今まで遠くに行ったことがほとんどない息子が、初めて故郷を出てあれほどの大舞台に上れるとは夢にも思いませんでした」
丹寨からカタールまでどのぐらいの日数がかかるのか?金粲璨さんは父親と共にバスで貴州の山間にある三都スイ(水)族自治県に向かい、そこから高速鉄道に乗り換えて省都の貴陽に行った。翌日は上海行きの飛行機に乗り、香港を経由してドーハに飛んだ。高速鉄道も飛行機も、省から出ることも外国に行くことも全て金粲璨さんにとって初めてのことだった。サッカーのおかげで彼は故郷を出て、さらに大きな世界を目の当たりにすることができた。
高校、大学、そして一生サッカーを続けていきたいと金粲璨さんは語る。ワールドカップ決勝戦のフラッグベアラーを務めた彼の夢は、英語を勉強して外国人ともっと上手に交流することだ。