ミャオ族刺しゅうのお針子 母娘で世界に作品売り込む

2023-07-12 11:46:00

高原=文秦斌=写真

初夏、貴州省台江県萃文街の仰黎ミャオ(苗)族刺しゅう工房で、オンラインショップから注文があったミャオ族刺しゅうをせわしなくし、発送する潘玉珍さん(78)と娘の張艶梅さんの姿があった。ラッピングし、袋に詰め、密封するという潘さんの一連の動作はとてもテキパキとしていて、若者に全く引けを取らない。「ろうけつ染めノートは浙江省や安徽省などに送る予定です」と彼女は言った。 

潘さんは国家級無形文化遺産「ミャオ族刺しゅう」の伝承者だ。20年以上前まで、彼女は斬新で美しいミャオ族刺しゅうを持って海外に出て、米国、英国、フランスなど十数カ国を飛び回った。中国国際ファッションウィークやファッション展示会のステージでは自分が刺しゅうを施したミャオ族の衣装を着てランウェイを歩いたことで、国内外の多くのデザイナーがミャオ族の集落を訪れ、ミャオ族刺しゅう文化に対する研究と理解を深めた。今では彼女は娘の艶梅さんに「バトン」を渡している。


エンドウ染めする潘さん母娘 

針と糸が織りなす神話 

中国のミャオ族は長い歴史を持つが、文字を持たない民族であり、ミャオ族刺しゅうとはすなわちミャオ族が身にまとう「非文字叙事詩」だ。刺しゅうの図案にある美しい動植物や個性的な鳥獣類にはいずれも特別な意味が込められている。中国の他の伝統的な刺しゅう工芸とは異なり、ミャオ族刺しゅうは躍動感があってカラフルなデザインで名をはせている。中国の著名な作家で歴史文物研究家の沈従文はミャオ族刺しゅうを「独創性のある大胆さとあどけなさに満ちている」と評価した。 

「ミャオ族のお針子は針と糸で言葉をつむぎ、民族の創世神話や移動の歴史、そして繊細な感情までも衣服に記すのです」と潘さんは語る。伝説によれば、ミャオ族の女首領・蘭娟はミャオ族の仲間たちを率いて南へ大移動した際、その過程を後世に残すために、起きた出来事を色糸で表現する手法を使って服に記号を縫い付けたという。「縫い付けられた黄色い糸は黄河を、青い糸は長江を、緑の糸は清水江、咲き誇るボタンの花は先祖が通った洛陽城を表しています……」と潘さんは模様を指し示しながら説明する。 

「蝴蝶媽媽古歌苗族鼓藏衣」は潘さんと艶梅さんの一番の自信作だ。潘さんは模様を一つずつ指差しながら、来客にミャオ族古歌の物語をよどみなく披露する。ミャオ族古歌とは貴州省の台江県と黄平県で伝えられる地方の伝統的な民間文学で、国家級無形文化遺産の一つでもある。古歌の内容はあらゆるものを含み、ミャオ族の古代神話の結晶だ。その中には、楓の神樹が蝴蝶媽媽(蝶の母親)を産み、蝶の母親が人類、動物、そして巨大な神を産んだという物語がある。ミャオ族の衣装の図案はいずれもミャオ族古歌が歌い継いできた内容に基づいており、どのように表現するかはお針子たちの想像力と腕にかかっている。「蝴蝶媽媽古歌苗族鼓藏衣」のような衣装は膨大な作業工程と長い制作期間が必要で、制作に3年以上はかかるため、とても貴重だ。 

外国人にも受ける伝統工芸 

潘さんは5歳のときに母親からミャオ族刺しゅうを習い始め、十字縫い、割り糸、刺しゅう、錦織、染色などを習得していった。「子どもの頃、母から複雑なミャオ族刺しゅうの技巧を教わるたびに、2、3日練習すればだいたいできるようになりました」。村の年長者から、刺しゅうが上手な人は北京へ作品を展示しに行けると聞いた彼女は、当時わずか11歳でありながら、ミャオ族刺しゅうに一途に打ち込み、暇さえあれば苦心して技術を学び、現地では名の知れた刺しゅう名人となった。 

1994年に彼女は台江県民族民間服飾錦織工房をつくり、出稼ぎに行った夫の代わりに留守を守る現地の女性に刺しゅうの仕事を与えた。販路を開拓するためにいつも天秤棒を担いで列車に乗り、一人で全国を奔走した。「始めたばかりのころは売れ行きが悪く、これでは稼げないと思って果物売りをしに家へ帰った人もいました」と潘さんは振り返る。一時期は彼女の3人の娘しかついてこなかったこともあった。3年後、潘さんは友人の紹介で北京の潘家園市場の一角を借り、そこで顧客を獲得し、視野を広げるとともに、大勢の人間に自分を売り込むことができた。 

2000年に潘さんは招待を受けてシンガポールの展示即売会に参加した。彼女にとってミャオ族刺しゅうを持参しての初の海外進出であり、ランウェイへのデビューであった。「ステージは高くて、両側に数え切れない人が座っていて、みんな私を見ているので、とても緊張しました」と潘さんはランウェイに初めて上ったときのことを振り返ると、大笑いした。「それまではネットショップなどなかったので、ミャオ族刺しゅう製品を北京の潘家園で直接売るか、国や地域の展示会に参加して売るだけでした」 

「これまで十数カ国に行きましたが、どこの国の人々も私たちの刺しゅうをとても喜んでくれました。とりわけクリスマスの時期になると、家族へのプレゼントに一点買うためだけに100㍍以上の列ができるときもありました。服を作るのは自分で着るためとしか考えていなかった私たちにとって、ここまで好評だとは想像もしていませんでした。米国のサンタフェでは、1日で40万元以上売り上げました」 

海外の展示会に参加するたびに、潘さんはその場でミャオ族刺しゅうの技巧を披露し、製品を販売する傍ら、外国人たちにミャオ族そして中国の無形文化遺産と民間に伝わる物語を紹介する。「この図案はなんだ、どうしてこう縫うんだと外国人たちからしょっちゅう聞かれます」。そのたびに彼女は自分が知っている限りのことを答える。「民族のものは世界のものでもありますから、歴史と先祖から伝わる物語を衣装に縫い込み、自分の子どもたちだけではなく、外の世界にも届けていかなければいけません」。こうすれば中華文化をよりいっそう世界に届けられると潘さんは語る。


草木染めの様子

ネットで販路を広げる 

潘さんが海外の展示会に参加した経験は、娘の艶梅さんに深い印象を残した。 

艶梅さんは潘さんの次女で、3歳のときにポリオを患い障害が残り、歩行時に杖が必要になった。19歳で高校を卒業後、母親から「バトン」をつなぎ、今の世代のお針子となった。「母親がミャオ族刺しゅうを初めて海外に持っていったとき、まだ幼かった私は、自分たちのミャオ族刺しゅうをPRしに行っただけじゃなく、お針子たちの利益まで持って帰ってきた母のことをとてもすごいと思いました。それで改めてミャオ族刺しゅうを学ぶ決心を固めたんです」 

艶梅さんは潘さんの3人娘の中で一番ミャオ族刺しゅうの技巧に優れ、やることなすこと母親同様に勇ましい。サイズが大きなミャオ族刺しゅうの制作には長期の作業期間が必要で、現在の消費者のニーズに応えられず、ミャオ族文化の普及にも影響が出ると考えた艶梅さんは、ミャオ族神話に登場する蝶の母親、竹、そして縁起の良い多くのミャオ族文様などのサイズが小さなものを現代ファッションに取り入れるとともに、伝統的な刺しゅう、錦織、藍染めなどをファッションやカルチャーツーリズムコンテンツに取り入れ、ミャオ族刺しゅう製品の生産効率を高め、より多くの若者に理解されて受け入れられ、「ミャオ族刺しゅうをより遠くまで普及」させた。 

インターネット時代において、ミャオ族刺しゅうの従来の販売モデルも人知れず変化した。艶梅さんは数年前に台江県のeコマース研修に参加したが、さまざまな原因によって、彼女らがつくったタオバオショップは運営したものの理想とは程遠かった。「これまではみな展示会で実際に販売していましたが、新型コロナウイルス感染症の流行によって数年間対面型の展示会が開かれず、販売が課題になりました」 

その際、ボランティアたちが無形文化遺産工芸技術の開発的保護に乗り出した。今年2月、北京や杭州からプロダクトデザイナー、ウェブデザイナー、カメラマン、動画配信者といった6人のボランティアが潘さん母娘の工房を訪れた。彼らは母娘のミャオ族刺しゅう作品のために新しい通販サイトを立ち上げ、新たなヒット商品をデザインし、またミャオ族の集落でのファッションショーの開催を計画し、ライブ配信という形で視聴者にミャオ族のファッションを紹介した。このようにして、山間部に住むお針子たちはウェブサイトで収入をいっそう得られるようになった。 


ライブ配信者(右)にサポートされ、タオバオライブで刺しゅうを売る潘さん母娘

 

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