【日本の中に見る中国】第1回 博多 聖一国師と謝国明
文・写真=須賀努
コロナ禍で2年以上、海外の旅が出来ない日々が続いた。その間、状況を見ながら日本国内を旅して、「新たなる日本の発見」をいくつもしてきた。そんな中日本にはたくさんの中国の痕跡が残されており、古来より日中関係が尋常ではない長さで続いていることも身を持って体験したが、我々はその歴史を忘れてしまっているのが残念だと感じた。今回からその事跡と旅を紹介していきたい。
径山寺の聖一国師像(浙江省)
聖一国師(円爾弁円)と言えば、南宋時代に径山万寿禅寺(現在の浙江省杭州郊外)に渡って修行を重ね、博多承天寺、京都東福寺などを開いた著名な僧侶である。またお茶の世界では「静岡茶の祖」とも呼ばれ、静岡に最初に茶をもたらした人物として、地元では古くからその伝承がある。国師は静岡出身であり、宋から帰国後静岡に立ち寄った際に、持ち帰った茶の種を植えたとのことだが、さて史実はどうであろうか。因みに以前径山万寿禅寺を訪ねた折は、国師像が置かれており、「日本茶道の源流」などという表示が見られた。
東福寺(京都)
聖一国師ゆかりの清見寺(静岡)
博多には聖福寺(栄西禅師開山)のすぐ近くに聖一国師の開いた承天寺がある。その中に「饂飩蕎麦発祥之地」「御饅頭所」「満田彌三右衛門の碑」という石碑が3つ並んでいるのが目に付く。饂飩や蕎麦、饅頭などの製法は国師が宋から持ち帰った物が最初とされており、満田彌三右衛門の石碑は国師と共に宋に渡り、織物、じゃこう、素麵などを持ち帰り、博多織の源流となったことを記念している。
承天寺「饂飩蕎麦発祥之地」石碑(博多)
因みに現在博多で食べる「ごぼう天うどん」は非常に美味しいが、そのうどんは柔らかく、何となく中国の麺を思い起こす。日本人は「麺のコシ」を重視する傾向があるが、中国で食べる麺は何となくフニャフニャしている物が多い。博多で国師が持ち帰った伝統的な麺を今も保持しているとすれば素晴らしいのだが。
ごぼう天うどん(博多)
ところで聖一国師の留学費用はどこから出たのか、そしてなぜ径山万寿禅寺へ行ったのか、そして帰国後承天寺創建は誰が行ったのか?といった様々な疑問があった。そこに宋の大商人、謝国明なる人物が浮かび上がってきた。今回博多へ行き、大楠様に出会った。博多駅にほど近い場所に謝国明の墓と伝えられる一角があり、謝国明に関する石碑と共に、そこには大きな楠がある。博多綱首(船団を所有する大商人)として、鎌倉時代初期の博多を舞台に宋との交易で活躍しているが、実はその生没年も分からない人物だ。
謝国明の墓(博多)
謝国明の墓の楠(博多)
1233年入宋を目指して国師が博多へ来ると国明はすぐに帰依して私邸に滞在させ、同時に火災に遭った径山万寿禅寺に多大な支援を行い、再建させ、1235年国師が径山万寿禅寺に着く時には全てが整っていた。勿論入宋費用も彼から出ていたと思われ、国師は強力なパトロンを得たことになる。商人国明はある意味で先行投資をしたのだろうが、国師の人柄に深く共鳴、信頼した証でもあろう。
1241年に国師が帰国する際には、筥崎宮領を購入して承天寺を建て、国師を迎え入れた。国師がもたらした物がその後の日本にとって重要なのは言うまでもないが、謝国明なくして、聖一国師のその後もなかったのではないかと思われるほどの貢献ぶりである。また貧民救済などにも尽力し、地元でも戦前まではかなり慕われていたとも聞く。
謝国明の博多での活躍についてもっと知りたいと思ったが、資料が乏しい彼の人生には不明な点が多過ぎる。資料がないとその歴史は埋もれていき、人々から忘れられていく。ただ国明と国師の繋がりを見ていると、今ほど交通が便利でなかった800年前の方が、実は日中が身近だったと感じ、個々人が強い信頼関係を結ぶことの重要性が見て取れる。
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