日本料理を中国に広めた33年間

2022-10-01 17:10:59

北京市朝陽区亮馬橋路。各国の大使館が集まるこの一角に、バーやレストランなどさまざまな店が軒を並べる個性的な商店街「好運街」がある。 

通り沿いに歩いていくと、木製の引き戸に店名の書かれた浅黄色ののれん、赤いだるまが目に止まる。藍色の看板の前で足を止め、建物の中に入れば、地下1階の店内からは日本のドラマのヒット曲が聞こえてくる。ドアを開けて店内に足を踏み入れると、スタッフが元気のいい掛け声とともに出迎えてくれる。視界に広がるのは日本の風情に満ちた内装、フロアや畳敷きの個室を行き来して刺身の盛り合わせなどを忙しく運ぶ店員たち。また、店内ではグルメ好きの人々の楽しそうな笑い声が絶えず聞こえてくる。カウンターに設けられた透明なガラスの向こうでは、料理長が刺身を作りながら、客が入店してきたりおあいそをするたびに「いらっしゃいませ」「ご来店ありがとうございました」と欠かさず声を掛けている。 

この店こそ、隠れ家的な場所にある日本料理店「蔵善」であり、料理長は北京で日本料理の普及に携わって33年、すでに還暦を過ぎている小林金二さんだ。「当店は地下にあって倉庫のような感じなのですが、『蔵の中にはいいものがありますよ』『本当においしい日本料理をお出しします』という意味を込めて、屋号を蔵善としました」。そう言って温厚な語り口と優しい笑顔でお店の説明をしてくれた小林さんは、自らの店のにぎわいについて謙虚に言葉を選んでいたが、活気に満ちた店内の様子は同氏の代わりに全てを物語るかのようだった。 

好運街は2005年の開業以来、北京で日本料理店が集まる有名な場所の一つとなった。そこに初めてテナント入りした日本料理店、しかも小林さんが手掛けた店である蔵善はグルメ愛好家の間で話題を呼び、人気店となった。 

  

小林金二さん(写真・顧思騏/人民中国) 

  

マイナーだった日本料理がブームに 

その日の夜、蔵善には20人近い宴会の予約が入っていた。その主役は、北京で働く者同士として小林さんと長い付き合いのある日本人の友人だった。このたび定年退職することになり、中国人の同僚たちがその方のために小林さんの店でお祝いの席を設けたのだ。 

「お客様のために特別にフグを用意しました。オンラインでもオフラインでも注文すればすぐお店に届きます」と、フグのからあげの仕込みをしながら話す小林さん。「今は日中合弁の食品企業がますます増えていて、食材の味も日本と大差ありません。市場には輸入品を含めて豊富な種類の食材が流通していて、海鮮などもECプラットフォームを通じて購入できますし、昔に比べて本当に便利になりました」 

小林さんが日本料理を学び始めたのは19歳の頃で、23歳のときには大型日本食チェーン店・京樽の日本料理部門に入社した。1985年4月、同社は北京飯店と合弁で、北京で最も早く規模の大きな日本料理店の一つである「五人百姓」をオープンさせた。89年10月、33歳だった小林さんは料理の腕を見込まれ、そこに派遣されることになり、当時の北京で最も若い料理長となった。 

だが、小林さんは北京に到着してすぐ、極めて大きな試練に直面した。それは、食材の調達の難しさである。当時の北京にはまだ日本の食品を扱う企業がなく、大半の食材は日本から持ってくる必要があった。 

「日本と中国では野菜が同じではない上に、オクラなど日本では普通に見掛けるものの中国の食卓にはまだ上っていなかった野菜もあったため、日本から種を持ち込み、北京市海淀区にある中日友好農場で栽培する必要がありました。また、野菜だけでなく調味料もそろっていなくて、マヨネーズは一から自分で作っていました。コールドチェーンによる輸送なんてもちろんありませんから、漁師の人たちは氷でいっぱいの箱に魚を入れ、北戴河から北京まで夜通し車を運転して運んでいましたし、冬場には冷凍した魚しか使えませんでした」と、小林さんは当時を振り返りつつ語ってくれた。 

食材の供給だけでなく、日本料理店の客層にも変化があった。小林さんによると、かつて客といえば中国で働く日本人ばかりで、来店する中国の人々もいたとはいえ、日本料理は値が張るせいか「日本料理を食べることを一種のステータスと捉えているようでした」という。だが現在、中国のグルメ好きな人々に店内で話を聞くと、返ってくるのは「日本料理はさっぱりした味わいで、肉と野菜のバランスが取れていて健康にいい」「日本酒や梅酒は女子会で少し飲むのにちょうどいい」「日本料理は食材が持つ本来の味わいを保っている上に、精緻さを感じる」といった答えだ。このことから分かるように、誰もが日本料理が好きで店を訪れており、日本料理は中国の一般市民の暮らしに浸透しているのである。 

中国経済は改革開放以降に高速発展を遂げ、国内総生産(GDP)は数十倍となり、人々の生活水準は絶え間なく向上した。小林さんによると、89年に中国へ来たばかりの頃、北京には8軒しか日本料理店がなかったという。だが、92年には中国進出1店舗目となる吉野家が北京に登場し、97年には味千ラーメンの中国1号店が深圳にオープンした。さらに2003年からはサイゼリヤが上海、広州などに続々と独立採算制の企業を設立していった。日本の飲食店チェーンのブランドは続々と中国進出し、個人経営の店も徐々に増え、日本料理店のランクや種類も幅広いものとなっていった。 

08年の北京夏季オリンピック後、ますます多くの日本人料理人が北京にやってきて店を開き、10年からはそれらの店を訪れる中国人客も増え始め、現在では北京の日本料理店や日本料理を提供する飲食店は3000軒を超えていると小林さんは語る。「日本料理店は増えれば増えるほどいいことなんです。たくさんのお店があれば比較ができますし、お客様は自分の好みに一番合う味は一体何なのか、一番好きな日本料理は何かということが分かりますから」 

  

小林さんオリジナルのお刺身、一升漬け乗せ(写真・本人提供) 

  

ただ作るだけでなく広める取り組み 

日本料理が中国で人々に受け入れられるようになったのは、一人一人の料理人の努力があったからこそだ。1990年、小林さんは日本料理をより普及させ、クオリティーを高めるため、北京日本調理師会を立ち上げた。同会は資金を拠出し、大連や青島など各地の日本料理の料理人を招いて、北京で料理コンクールを開催した。コンクールには多くの日本人が集まっただけでなく、中国人の料理人も積極的に加わるなど、大成功を収めた。また、小林さんは93年前後に自らの店舗で北京初となるマグロの解体ショーを披露し、それを見た人々は日本料理への理解を深めた。刺身を食べたことのない中国人客が店を訪れることもあったが、小林さんが調理過程を見せて味見をするよう勧めると、食べた人はそれまで抱いていた生食へのイメージが覆され、刺身好きになることもしばしばだった。 

そのような日本料理を広める取り組みに加え、小林さんは日本料理の調理師育成を今後も続けていくことを自らの奮闘目標としている。小林さんから見て、中国の人々に日本料理の調理法を教える上で最も難しいのは、彼らが見たことも食べたこともないかもしれないものをいかにして上手に作れるようにするかということだ。 

「中国の料理人は『差不多』(だいたい)という言葉を使うのが好きですが、私たちの店では禁句にしています」と、他の話題は笑いながら話す小林さんだが、このことを言うときには厳しい表情となり、語気を強めて次のように語った。「例えば、塩ひとさじを加えるときに、八分目でも山盛りでも同じひとさじとしていたら、料理の味は全く違うものになってしまいます。スタッフたちは私のことを厳しい人だと感じているでしょうが、『差不多』のやり方ではちゃんとした日本料理は作れません」 

現在までに小林さんが教えた弟子は1000人を超え、それぞれが各地の日本料理店で活躍しており、中には自身も弟子を取る立場となった人もいる。小林さんによると、町中で見知らぬ人から突然「先生!」と声を掛けられ、よくよく聞いてみれば自分が教えた弟子のそのまた弟子、つまり孫弟子だったということもあったという。 

「料理というのは本当に奥が深いものです。例えばキュウリにしても、そのままだと1本食べるのがやっとですが、ちょっと塩をふっただけでも味が変わって2本、3本と食べられてしまうんです。料理は私にとって仕事であると同時に、人生そのものでもあります。より多くの方に日本料理を好きになってもらい、料理人だけでなく一般の方にも私が身に付けてきた日本料理の作り方を教えたいですね」 

小林さんは古くから北京で暮らす人たちと同様に、どこの店の雪菜肉絲麺(高菜と豚肉の細切りラーメン)がおいしいか、どのアプリを使えばタクシーを早く呼べるかといったことを知り尽くしており、この都市の変化についても非常に詳しい。来たばかりでまだ完全にはなじんでいなかった頃、小林さんは空港に降り立つたびに「また北京に来てしまった」とため息をついていたが、今では「ついに北京に戻ってきた」と喜びを感じるようになった。 

「日中両国は深い友好と交流の歴史があり、それはこれからも続いていくと思います。私はふるさとの日本を愛していますが、同時に幸運にも中国に来て、この国の発展と変化を目の当たりにすることができました。今の自分があるのは北京のおかげだと思いますし、北京は私の第二のふるさとです」 

 

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