私の中日学術交流記(上)柳宗元が結んだ友情の日々

2023-04-23 17:13:00

孫昌武=文・写真提供

私が初めて日本の学者と友人になったのは、偶然のきっかけだった。1980年、北京の人民文学出版社では、私の原稿『柳宗元伝論』の出版を予定していた。私が教えていた天津の南開大学は北京から近かったので、原稿の修正が必要となるたびに私は北京に行き、編集者と相談していた。 

それは、この年のある夏の日の午後だったと思う。出版社に着くと、編集者たちが出掛けるために門を出ようとしていた。彼らは、午後に北京師範大学で日本の専門家が何人か講演をするので、興味があれば一緒に聴きに行かないかと言った。そこで、私は彼らに付いて行くことにした。 

 

「柳宗元」で清水教授と知己に 

当日講演した日本の学者の一人は、京都大学の清水茂教授(1925~2008年)だった。清水教授は、中国の唐宋代の文学を研究する著名な専門家で、中国文学の日本人研究者による「京都学派」の最後のリーダーと見られていた。その生涯においては、『清水茂漢学論集』や『中国詩文論薮』『語りの文学』『中国目録学』などの著書がある。また翻訳や注釈には、『唐宋八家文中国古典選3538巻』『中国詩人選集第11巻韓愈』『中国詩人選集二集第4巻王安石』『完訳水滸伝』『中国文明選第7巻顧炎武集』『中国詩文選3書経 春秋』『京都大学漢籍善本叢書』などがある。清水教授の論文『柳宗元の生活体験とその山水記』は中国の雑誌『文史哲』の1957年第4期に発表され、後に人民文学出版社が編集した『中国古典散文研究論文集』に収められている。これは、新中国成立後、日本人学者による中国の古典文学の研究成果を紹介したものとしては、比較的早期の専門論文である。 

私は大学時代にこれを読み、後に私が書いた『柳宗元伝論』でも、関連する章でその見解を参考にしたことがある。あのとき、清水教授と会えたのは実に運が良かった。以後、私は清水教授と交流し続けることになる。 

私が神戸大学で教えていた1980年代初め、清水教授の京大の研究室に伺い、心のこもったもてなしを受けた。また80年代末に、京大の人文科学研究所の外国人研究員となったとき、清水教授は京大の文学部長で、幸いなことに私は再び清水教授と同僚として交わる機会を得た。 

清水教授が80年夏に北京師範大で行った講演は、日本における『柳宗元文集』30巻本の残存状況についてで、私にとっては実に好都合だった。私は柳宗元を研究しており、柳宗元の親友で詩人の劉禹錫が『柳宗元文集』30巻を編集していたことは知っていたが、最初に編集したテキストはすでに散逸し、具体的にどのような本だったか詳しくは分からなかった(数年前、このテキストが東京神田神保町の古書店で見つかった。同書の売値は2億円だったという)。清水教授の講演では、この30巻の残存巻は清代の蔵書家陸心源の書斎「皕宋楼」に隠されていたという。また、この叢書はセットで清朝末期に日本人に売られ、現在は都内にある三菱グループ傘下の「静嘉堂文庫」が所有しているという。この残存巻は数ページあるだけで、主な内容は残存している物の目録と古詩一首だけだ。しかし、わずかではあるが、そこから30巻本の姿をうかがい知ることができる。 

ほとんどの人は中国の古典文学伝播史におけるこの例を知らないので、講演者の研究成果の価値がどこにあるのか理解するのは難しかった。だから、この日の清水氏の講演に対する聴衆の反応はつれなかったが、私にはむしろ興味深かった。 

日本の専門家たちの講演が終わると、私は清水氏に駆け寄って教えを請うた。これは清水氏にとって意外だったのかもしれないが、大変熱心に根気強く私の質問に答えてくれた。私はぶしつけにも、残存巻のコピーを一部欲しいと清水氏に頼んだ。すると清水氏は快く応じ、帰国後まもなく郵便でコピーが送られて来た。このコピーにより、私は著書の柳宗元文集の編さんと各版の状況に関する論述について補充することができた。清水氏の快諾を得た後、私はこの残存巻の1ページの写真を出版予定だった『柳宗元伝論』巻頭に置いた。 

あの時に清水氏と知り合ったことで、その後、私は二人の若い日本の訪問学者を受け入れることになった。 

  

川合さんと教え学び向上 

81年秋に突然、私は清水教授から二人の弟子を紹介したいという手紙を受け取った。一人は東北大学文学部で教える川合康三助教授で、私のところでの訪問研究を希望していた。川合さんは中国の古典文学を研究する若い研究者で、1年間の学術休暇を利用して中国に来て、中国の学術状況を知り、中国の風土や実情を体験したいと考えていた。 

川合さん一家4人は、訪問先の天津大学の専門家棟を借りて住んだ。彼は私たちと週に1、2度言葉を交わしたが、何度か話をするうちに、彼の中国語の読解や口語、作文がいずれも高いレベルであることが分かった。 

川合さんが出た京都大学は、国際的にも知られた中国研究の拠点で、高名な研究者たちが世界から雲集していた。川合さんは聡明かつ学問好きで、中国文学史の基礎知識もしっかりしていた。また西洋の文学理論の吸収や参考を心掛け、研究で多くの深い見解を持っていた。私は彼に中国の研究状況や資料を紹介し、彼も私が日本の学界の状況や学術的な成果を理解するのを助けてくれた。 

川合さんは、私に東北大学文学部で中国語史研究の専門家である志村良治教授を紹介してくれ、連絡を付けて著作の交換の労を取ってくれた。川合さんは、構造主義理論によって唐代の詩人李賀の詩句がどのように隠喩を用いているかを分析。李賀の詩の芸術的な特徴の解説において大変新しいアイデアを持つ文章を書いていた。私は、その川合さんの文章を吉林省長春の権威ある学術刊行物『社会科学戦線』に紹介し、掲載を推薦した。私たちの関係は、このように中国の伝統的な「互いに教え学び成長する」精神を表している。 

川合さんは中国の各地を実地調査し、大きな収穫を得た。82年5月、私は彼を伴って陝西省西安の西北大学で開かれた中国唐代文学学会の設立大会に参加した。同大会はかなり盛大で、改革開放後に開かれた学術的に重要な意義を持つ大規模な学術会議だった。会議には、唐代文学を研究する中国の大家や専門家が多く集まり、長年積み重ねられた研究成果が集中的に紹介され、川合さんも大きな啓発を受けたようだった。 

川合さん一家――妻正子さん、長女摩耶ちゃん、長男言志君と、私の家族とも仲良くお付き合いした。われわれが住んでいた職員棟は、部屋が狭く台所も共用で、設備は貧弱だった。だが、川合さん一家はそれを少しも気にしていなかった。私の妻が中国料理で彼ら一家をもてなせば、正子さんもゲストハウスの台所と調理器具を借り、日本料理を作って私たちをもてなしてくれた。彼らが帰国する前、両家族は別れを惜しみ、正子さんは使わない日用品や裁縫道具を妻に残してくれた。 

川合さんは帰国後、勤め先の東北大がある仙台に新居を設けた。また手紙で、私が日本に来たときに泊まれるよう一部屋を用意してあると伝えてきた。その後、本当に私が住む機会が訪れた。私の長女が89年に日本に留学する際、彼は保証人になってくれた。また91年には、次女も日本に留学し、長女と共に京都大学で学ぶことになった。このとき、ちょうど川合さんは京大文学部に移っていて、二人の娘はいろいろお世話になった。その後、京大を卒業した長女は京都に住み、引き続き川合さん一家と親しくお付き合いさせていただいている。


文献や資料探しに、神戸から東大文学部の図書館にも足を延ばした(筆者は左、1984年10月)

  

情熱的で実直な戸崎さん 

川合さんが帰国して1年後、清水教授はまた新たに一人の学生を紹介してきた。当時、京都大学文学部大学院の博士課程にいた戸崎哲彦さんで、われわれのところに研修にやって来た。戸崎さんの実家は農家で、性格は温厚実直。初めて会ったその日、戸崎さんはリュックに有名ブランデーの大びんを背負ってきた。戸崎さんは川合さんと同じように頭脳明晰で、また努力家で勉強熱心だった。また、人付き合いが得意な川合さんと比べ、戸崎さんはより真面目で研さんに励むことに集中していた。 

戸崎さんは、もう一人の留学生と同じ部屋に住んでいた。二人の間はカーテンで仕切られ、戸崎さんは1年間、半分だけの部屋で研究に打ち込み、めったに外出しなかった。一度、彼を連れて学術会議に参加したことがある。831127日~12月2日に、広西チワン(壮)族自治区の柳州で開かれた柳宗元の哲学思想に関する学術討論会だ。私と戸崎さんは、天津から何度も列車を乗り換えながら1泊2日かけて柳州に着いた。戸崎さんは、これほど長く列車に乗ったことがなく、また広大な華北平原や連綿と続く江南の山並みを見たこともなかったので、この旅に大変興奮している様子だった。 

柳州での会議で戸崎さんは、中国社会科学院哲学研究所の辛冠潔所長ら中国の学者から親しく接してもらい、大変喜んでいた。戸崎さんは私に対し、食事では上げ膳据え膳で私の世話をしてくれたり、外出時には付き添ってくれたりと、弟子として礼を尽くして接する様子に、その場に人たちも大いに感心していた。この年、戸崎さんは私のサポートを受けて研究を行い、大量の書籍を購入。帰国時には、十数個の大きな木箱を船便で運ぶほどだった。 

戸崎さんの帰国を前にした84年夏、南開大学は私を神戸大学に客員教授として派遣することを決めた。そこで戸崎さんは、中国滞在の最後の時間を利用し、私に日本の生活習慣や礼儀、風習などを細かに説明してくれた。これは、後に日本の環境に慣れるのに少なからず助けとなった。 

戸崎さんの帰国から2カ月もたたずに、私は神戸大学に着任した。戸崎さんは私が到着したと聞くと、すぐに会いにやって来た。彼は私が料理をできないのを知っているので、私を連れてスーパーマーケットに行って牛肉と野菜を買い、ご飯を炊いて、牛肉カレーを作ってくれた。彼はその後もたびたびやって来ては生活や食事を手伝ってくれ、わが家にいるような気分にさせてくれた。 

日本滞在2年目の夏、妻が娘たちを連れて神戸にやって来た。私たち一家は、戸崎さんの両親に招かれ、鳥取県の彼の実家にしばらく滞在することになった。私たちが当時の国鉄倉吉駅に着くと、戸崎さんの父昭夫さんが迎えに来てくれていて、車で隣町の羽合町(現湯梨浜町)の自宅まで案内してくれた。その家は2階建ての日本式住宅で、日本海の海辺に面していて、周囲の風景は大変美しかった。私たちは戸崎さんの両親から温かく迎えられただけでなく、その親戚もあいさつにやって来た。 

その後、私たちは当時の羽合町長に招かれて面会し、町長から町の状況などを紹介された。特に、農村で組織されている農業協同組合(農協)の運営状況の説明を受けた。戸崎家に滞在した5日間に、私たちは近くの三徳山にある三徳山三仏寺を参観した。この寺は706年に創建された天台宗の古寺だ。三徳山は高くはないが急峻で、よじ登るにはうってつけの山だ。戸崎さん一家の深い気遣いは私たちの心に刻まれ、今でも両家は緊密に連絡を取り合っている。 

川合さんと戸崎さんはその後、輝かしい業績を収め、川合さんは京都大学文学部長に昇進。中日両国の大学の学術交流において、多くの仕事を成し遂げた。川合さんには『中国の恋のうた「詩経」から李商隠まで』をはじめ、『中国の自伝文学』『終南山の変容_中唐文学論集』『桃源郷中国の楽園思想』などの著書があり、白居易や李商隠の選集や『中国名詩選』などの編さんを手掛けている。 

一方の戸崎さんは、滋賀大学経済学部教授を経て島根大学法文学部教授を務めた。戸崎さんは柳宗元を研究し続け、著書には『唐代中期の文学と思想_柳宗元とその周辺』『柳宗元在永州』『柳宗元永州山水游記考』などがある。近年は広西チワン族自治区桂林の石刻の考古学研究に打ち込んでおり、『中国桂林鍾乳洞内現存古代壁書の研究』という大著を成した。また、桂林の鍾乳洞の壁面に残された宋詩を多数収集し、中国の雑誌『文史』に発表した。今や彼も川合さんも現代日本の「中国学」の大家である。二人の成長と収めた成果を見守ることは、心からうれしいと感じる。 

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