貫いた個人の良識と責任 思想史研究者が読み解く大江健三郎

2023-05-18 11:16:00

中国社会科学院日本研究所助理研究員熊淑娥=文

江健三郎氏の訃報を聞いたのは、3月13日だった。大江氏の健康状態が思わしくないことは以前から聞いていたが、その事実を認めることを意識的に避けてきた。大江氏は、私の20年近い読書の旅の案内役だ。その人が亡くなった。 


北京の西単図書ビルディングで開かれた中国語の『大江健三郎自選集』の出版記念サイン会で、ファンに囲まれながら笑顔でサインに応じる大江健三郎氏(2000年9月27日、新華社)

大江氏に出会い学んだ考え方 

初めて大江作品に触れたのは2005年の秋だった。私は国際関係学院(大学)に入学したばかりで、日本近現代文学を学んでいた。日本文学の翻訳者竺家栄先生の授業で、初めて大江健三郎の名を聞いた。その後、1994年にノーベル文学賞を受賞した際の記念講演『あいまいな日本の私』を読んだ。読み終わって感激したことを今でもはっきりと覚えている。「個人的な具体性から出発して、それを社会、国家、世界につなごうとする」のが大江文学の最も基本的な精神であり、私が最も啓発されたところでもある。 

幸いにも2006年9月9日、中国社会科学院の学術ホールで大江氏の講演を拝聴する機会に恵まれた。大江氏は本の虫で、本を読むことが、世界とつながり自分の小宇宙を創造する方法だった。現代社会における疎外についての鋭い考察は、文学の領域そのものを超え、社会と国家、世界との関係で文学を捉えるという考え方が私の心に一つの種をまいた。特に珍しかったのは、大江氏は普遍的な問題を考えていたが、その作品はむしろ終始東アジアの文学土壌に根差していたことだ。 

「読み返し」と「書き直し」 

大江氏は0910月6日、台北で行われた「国際的視野における大江健三郎シンポジウム」に参加し、「『後期の仕事』の現場から」と題した基調講演を行った。この講演を中国語に翻訳すると、文芸誌『作家』の10年8月号に発表する機会を得た。 

日本が敗戦し降伏した1945年、大江氏はまだ10歳だった。ここから「敗戦後の新たな時代精神の追求」がずっと大江氏の心深くに植え付けられ、生涯守り通す目標となった。 

3カ月近くに及ぶ翻訳の間、私は大江氏の難解な日本語に終始めまいを感じながらも夢中になり、遠ざけたいとは思わなかった。大江氏の思想は泉のような存在で、ほとんどの時間、それはまるで存在しないかのようにひっそりとしている。だが、私が疲れ切り渇きを覚えたとき、それはいつも思想という養分を与え続けてくれた。 

翻訳が掲載された同年9月、私は中国社会科学院の大学院に進学し、日本思想史専攻の博士課程に入った。博士課程に在学中、私は常に大江氏の読書方法を学び、2種類以上の言語を使って同じテキストを読んだ。 

大江氏は外国の詩歌を好んで読んだ。和訳された以外にも英語やフランス語、さらにその他の言語と照らし合わせて読んでいた。大江氏は、「読み返す」ことにより、同じテーマに対する自身の理解を深めるだけでなく、小説の創作においても繰り返し実践した。彼自身の言葉を借りれば、それは「書き直し」である。例えば、大江氏は2009年に発表した長編小説『水死』の第3部で、英国の詩人Tエリオットの『荒地』(TheWasteLand)を引用し、また詩の一文を巻頭言(エピグラフ)にもしている。『水死』というこの書名も、同様に『荒地』第4章の「DeathByWater」から来ている。「読み返し」であろうが「書き直し」であろうが、私が身を置く日本思想史の分野では、いずれも重要な考え方である。 

日本思想史における大江氏 

大江氏と巡り合ったのは日本文学だったが、大江作品を読み学んだ考え方と、戦後の日本思想史における大江氏の位置が、私を日本思想史の研究へと向かわせた。現在、私が取り組んでいる日本人の「戦後」認識という研究テーマには、研究文献に大江氏の名がよく出てくる。大江氏の日本の社会に対する責任は、具体的には民主主義の擁護、反戦、平和主義を守り通すことに反映されている。賞賛すべきは、大江氏は23歳で芥川賞を受賞して以来、終始、民主主義の立場を守り通し、初志を貫いていることだ。 

戦後、日本の経済成長が大衆社会を生み、安保闘争は大衆社会における民主主義思想の実践場となった。1960年の安保闘争により、大江氏は、同時代の石原慎太郎氏や江藤淳氏らとたもとを分かった。戦後の日本社会に残された天皇制と、その根幹にある「家父長制問題」に直面した石原氏は、自民党内に「青嵐会」を結成し、タカ派政治家としての道を歩むことを選択した。 

江藤氏はいち早く保守化し、『成熟と喪失「母」の崩壊』(1967年)では、かつて家父長制の中心であった君主が米国という「外国人」に取って代わったことで、戦後の日本人が無自覚に米国の価値観を内面に取り込み、アイデンティティーを失ったと批判。昔の伝統的な日本へ戻るべきだと訴えた。 

大江氏は『水死』(2009年)で「王殺し」の筋書きを作り、その民主主義的な立場を「頑固」に貫き通した。大江氏にとって守り通すとは、絶え間ない危険と長い孤独を意味し、日本の社会が保守化に向かう時代の激流の中で、個人の良識と責任を悲壮的に示している。 

大江氏を通して魯迅再読 

魯迅は大江氏が崇拝し、読み続けた作家である。大江氏は2006年に社会科学院で講演『絶望から始まる希望』を行ったが、それを聴いた私は魯迅の作品を深く読み込んでいなかったことを知り、改めてその偉大さを認識させられた。 

中国社会科学青年学者の訪日団に同行して18年5月23日、東北大学内にある魯迅が留学していた当時の階段教室と、魯迅の記念像を見学した。そのとき思わず大江氏を思い出してしまった。その後、魯迅文学院と老舎文学院の集中学習に参加したが、そこでは大江氏と中国、大江氏と魯迅をテーマに参加者たちがよく討論をしていた。外国文学の翻訳研究をしている国内外の多くの若い友人たちと共に学んだ、この2回の貴重な経験は、地域を超えた大江氏の魅力と、時代を超えた魯迅の魅力を改めて気付かせてくれた。 

昨冬、魯迅の『朝花夕拾』『野草』などの作品を読み返した。散文集『野草』の中の『淡淡的血痕中』(色あせた血痕のなかに)を読んでいたとき、時々止まって内容をじっくり吟味したが、その間、魯迅と大江氏の二人に少し近づけたような気がした。 

大江氏はかつて、崩壊しそうなときにエリオットの詩に救われたと語っていた。「こんな切れっぱしでわたしはわたしの崩壊を支えてきた」(These Fragments I have shored against my ruins.)。大江氏は自身の挫折と粘り強さにより、時代の激流から個人がどうやって良識と責任を守り抜くかを示してくれた。一人の読者として、「明と暗、生と死、過去と未来の境界において」、大江氏のご冥福をお祈りするとともに、拙文をささげたい。 

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