大平元首相の孫娘・メディアプロデューサー渡辺満子 大切な信頼と文化交流

2023-11-03 17:30:00

王衆一=聞き手

中日平和友好条約の締結45周年の今年、中日友好に尽くした大平正芳元首相の孫娘で著名なメディアプロデューサーの渡辺満子さん(61)が、7月末に北京を訪れ、著書『皇后陛下美智子さま心のかけ橋』(中央公論新社、2014年)の中国語版『平成皇后美智子』の出版記念シンポジウムに出席、さまざまな中日交流イベントにも参加した。北京の民間団体「中日交流フォーラム」が主催した「中日映画交流座談会」にゲストとして招かれた渡辺さんは、本誌のインタビューに応じ、祖父大平氏の中日関係への貢献を振り返るとともに、自らの体験をもとに、映画交流を中心とした人と文化の交流が両国関係の発展に果たす積極的な役割について語った。 

インタビューに応じる渡辺満子さん(写真李寧)  

―大平元首相は、国交正常化と友好条約締結の両方を経験しましたが、孫娘として、当時のことについてどんな印象を持っていますか。 

渡辺満子 日中国交正常化は1972年で、私は当時10歳でした。その頃、日本では中国との国交正常化に反対する声がすごく大きくて大変でした。反対する右翼の街宣車が大平の自宅まで来て近所には迷惑をかけ、脅迫状も送りつけられ、反対派と機動隊合わせて1000人がにらみ合ったこともありました。そのような状況での北京行きは、命がけの旅とも言えます。 

中国への出発当日、私たち家族は、祖父に秘書官として同行した父の顔を見るのもこれが最後になるかもしれないと思い、全員で空港まで見送りに行ったほどでした。その朝、首都高速がストップされ、車が1台も走ってない道路を私たちの車だけが、パトカーの先導で音もなく進んで行った光景は今でも覚えています。 

―中日国交正常化は、当時の両国指導者たちの、優れた戦略的先見性と並々ならぬ政治的決断により、さまざまな困難と障害を克服して成し遂げられました。それは当時の両国指導者たちの共通体験と相互理解と関係があるでしょうか。 

渡辺 そうですね。阿吽の呼吸でしょう。大平は日中戦争(抗日戦争)のとき、大蔵官僚として北京近くの張家口に派遣されました。そのときに見た日本軍の横暴ぶりについて、クリスチャンだった大平は「大変申し訳なかった」と思い、贖罪意識が芽生えたのだと思います。 

祖父はこう言ってました――国交正常化のときに、周恩来総理が戦後の賠償問題を放棄してくれたからこそ国交正常化ができた。そうでなかったら、たぶん北京に来られなかった。それに対するお礼の気持ちが、日本の政府開発援助(ODA)につながったということです。 

大平に張家口での経験があったように、田中元首相にも中国での従軍経験がありました。一方、周恩来総理にも日本への留学経験があり、この3人の関係があったからこそ大仕事ができたのだと思います。田中内閣ができたとき、大平は田中首相に「われわれ二人でなければこの大仕事(国交正常化)は絶対にできない。だから、協力してやりましょう」と話したのです。 

―中国とのつながりは、祖父大平氏の経験や教えからきているのでしょうか。 

渡辺 はい。10歳のときに祖父と父を見送った経験から、その後、私は何か日本と中国の間のことを仕事にできたらいいなと思いました。祖父はかつて、「大陸国家である中国と海洋国家である日本は、隣同士でも大みそかと元日ほど違うが、永遠に離れられない関係だ。だからこそ両国には、仲良くするために相当の努力が不断に求められる」「隣国同士だからといって努力せずに理解し合えると考えるのは危うい」と語っていました。 

私は大学卒業後に日本テレビに入り、いろいろな番組を担当しました。北京オリンピックが行われた2008年には、日本テレビ開局55周年の記念特別番組として『女たちの中国』を企画しました。これは、日中の歴史の中で運命を翻弄された女性たちのドキュメンタリーで、当時88歳の山口淑子(李香蘭)さんへの4時間に及ぶインタビューは、深く印象に残っています。山口さんは、戦時中に出演した映画に対し、後悔と自責の念を抱き、日本に帰国後の願いはただ一つ、平和でした。山口さんは、平和を維持するのはいかに大切で難しいかということを誰よりも知っていたと思います。 

また、93年から始めた平成の美智子皇后さまへの取材は、今年で30年になります。これまでの取材を一冊の本にまとめて出版していた『皇后陛下美智子さま 心のかけ橋』が昨年、中国語版『平成皇后美智子』として出版されました。また、自著の『祖父大平正芳』の中国語版もすでに17年に出版されており、合わせて中国人読者の日本理解につながれば大変うれしく思います。 

―渡辺さんは2006年から日中映画祭実行委員会の副委員長を務め、中日間の映画交流を積極的に推進していますが、映画交流が両国関係に果たした役割をどのようにお考えですか。 

渡辺 日中映画祭のお手伝いをする中で、もともとの「日中友好映画祭実行委員会」から、この「友好」を取りましょうと私が提案しました。なぜなら、わざわざ友好をうたわなくても普通のやり方で両国の良い映画の交流を行い、ちゃんとフェアなビジネスになれば良いという気持ちでした。日中関係もこの普通の関係の原則でやっていきたいという私の考えです。 

映画は人の心を動かす総合芸術であり、その国を表す最高の文化だと思います。祖父は、国と国の間の政治や経済にはさまざまな局面があるけれど、一番大切なのは、人と人の厚い信頼関係と文化交流だと話していました。祖父の古里香川県は、唐に留学してその文化を日本に持ち帰った空海(弘法大師)の出身地です。今回の日中平和友好条約締結45周年を機に私たちは、福建省から日本に渡って禅の思想を広めた隠元禅師を取り上げる日中共同制作映画を企画しました。この映画を一日も早く完成し、両国の観客から拍手をいただくことを願っています。 

―中日映画祭という取り組みは中日協力の一つの試みだと言えます。このような協力からどのようなポジティブなシグナルを感じますか。 

渡辺 若者の作品には、もう文化的な壁はないと思います。私は本当に若者たちに期待しています。私たちができるのは、彼らに良いステージを用意することだと思います。 

中日平和友好条約締結45周年を記念した「中日映画交流座談会」の主な参加者(前列右から4人目が渡辺さん、写真提供中日交流フォーラム)

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