監督への道を照らした輝く星 俳優・宇津井健さんとの思い出
張加貝=文
世代を超えた交友
今から30年以上前、私はまだ映画界に足を踏み入れたばかりの若者だった。外国の映画やテレビ番組の翻訳と研究を仕事にしていたので、日本映画や日本の映画人に関心を持っていた。その頃、中国では山口百恵がヒロインのテレビドラマ『赤い迷路』『赤い運命』などの「赤いシリーズ」が大人気だった。私は特に、『赤い疑惑』でヒロインの父親「大島茂」役を演じた宇津井健のイメージが強く残っている。宇津井さんは私にとって「アイドル」だった。
映画監督になるという夢をかなえるため、私は1990年に来日し、当時の日本映画学校に入学した。時が過ぎ去る中で、芸術上の理想を実現するという道において、さまざまな困難や挫折を経験するのは言わずもがなだ。一方で、常に前進し続けるよう私を励ましてくれた先輩方にも出会えた。
28年前の1995年のことだと記憶している。NHKのドラマ『大地の子』の撮影に参加しているとき、偶然にも、私がずっと尊敬し憧れてきた宇津井健さんに出会った。当時、私はまだ一介の副ディレクター(助監督)にすぎず、国際的スターの撮影に参加できることをとても光栄に感じた。
ドラマの中で宇津井さんは、正義感に満ち善良で真面目な、東洋製鉄の重役・柿田潔を演じていた。出番はそれほど多くはなかったが、宇津井さんは情熱と才能の全てを撮影に注ぎ込み、まだ日本の映画界に足を踏み入れたばかりの私はとても感動したものだった。
宇津井さんはすでに有名な国際的スターだったが、ふだんは気さくで親しみやすい人だった。私と言葉を交わす中で、中国から映画を勉強しに来たことを知ると、宇津井さんは「日本での生活や仕事は簡単ではないでしょう。特に映画業界の仕事は大変ですね」と優しく声を掛けてくれた。またその後、雑談の際にはいつも私の弱気な考えを打ち消し、根気強く頑張るよう励ましてくれた。さらに宇津井さんはよく私をご自宅に招き、どうやって日本の社会に溶け込むか、人としてどう生きるか、どうしたらうまく監督ができるかなどを教えてくれた。
宇津井さんはとても中国が好きで、中国語を学びたいと思っていた。私は時間をつくっては中国語を教え、いくつか簡単な会話のフレーズを覚えてもらった。その後、宇津井さんが中国政府の招きを受け、中国のさまざまな映画やテレビのイベントに参加した際には、私が必ず同行した。撮影スケジュールの都合で参加できないときは、中国の観客に宇津井さんが心を込めてあいさつするビデオを私が撮影し、映画祭の実行委員会に届けたこともあった。宇津井さんは中国の映画・テレビ界に多くの友人があり、中国の観衆からいつも最も尊敬される良き友人でもあった。
新人監督への応援
宇津井さんの励ましを受けて2001年、私はついに日本の映画界でフリーの監督として第一歩を踏み出し、テレビドラマ『遠く日本に嫁いで』を制作した。宇津井さんにこのドラマへの出演をお願いしたところ、二つ返事で引き受けられ、異国からやって来た新人監督をサポートしてくれた。宇津井さんが出演し、また中国の観衆に人気のスター中野良子さんにも加わってもらい、ドラマはより輝きを増した。
撮影中、思い出深く一生忘れられない一つの出来事があった。
あれは寒い冬の日で、私たちは日本の農村で屋外シーンを撮影していた。その日、宇津井さんの出番は少なかったが、朝早くから撮影現場に来て、ひと言も発せずに近くに立って私が役者に演技指導するのを見守っていた。普通、宇津井さんのような国際的なスターには撮影チームが専用の休憩室を用意し、そこで待機してもらう。これは至極当たり前のことだが、宇津井さんは寒風の中で撮影を見続けた。
私は大変申し訳なく思い、イスから立ち上がり、座ってくれるよう頼んだ。だが宇津井さんはこれを固辞し、こう話した。「ディレクター(監督)チェアは監督だけが座ることができ、他の人は座れません。なぜなら、ディレクターチェアは監督の尊厳の象徴であり、神聖なイスですから。私が座らずここに立っているのは、皆さんの芝居から勉強するためです。張さんは私を気にせず、撮影に集中してください」
この言葉に私は深く感動した。宇津井さんの本当の目的は、私を応援するためだったのだ。私の初めての演出だったので、撮影現場をまとめきれないのを心配してくれたのだった。このときの場面を思い出すたびに感謝の気持ちで胸がいっぱいになり、今もなお心が熱くなる。
良い芝居は品格から
生まれながらにしてある職業に就く、あるいは生まれながらに何かをするよう定められている人がいる――宇津井さんはまさに芝居をするために生まれてきた人だった。その映画・テレビでの演技は、宇津井さんの人となり、人生を再現していた。『赤い疑惑』の父親役・大島茂は実生活での宇津井健であった。なぜなら、その芝居と自身の人生に大きなギャップはなかったからだ。
宇津井さんが発した次のような至言は今でも心に残っている。「この世界に天才はいるだろうか。確かにいる。だが、良い芝居を撮る、良い演技をするためには、まずどう生きるかをしっかり学び、人としての在り方を学ぶことが大切だ。これができて初めて本当の監督や俳優になることができる」
宇津井さんは14年3月14日、病気で亡くなられた。82歳だった。当時、私は国内で映画制作の準備中で、尊敬する恩師の宇津井さんにもう一度参加してもらうつもりだった。しかし、残念ながらひっそりと旅立たれてしまった。それから10年近くたったが、今もなお私はこの事実を受け入れたくない。
ある人はこう言う――花火が夜空を華やかに彩るとき、観衆は美しいと感じる。でも花火が感じるのは寂しさだけかもしれない。なぜなら、観衆の盛り上がりと花火は関係がないからだ。観衆が去る頃、花火はすでに燃え尽き、その美しさを覚えていないかもしれない。なぜなら、その美しさと燃え残った灰は関係がないからだ。
宇津井さんの生涯は花火のように華やかで、まばゆいばかりに輝いていた。しかし自身は光り輝いていたとは思わず、一人の普通の人と思っていた。
宇津井さんは自身をよくひとしずくの水に例えていた。この世界にやって来て、ひっそりと音もなく去って行く。しかし私は、宇津井さんは私の歩む道を照らしてくれた輝ける星・スターだと思っている。宇津井さんとお付き合いした毎日毎晩は、まるで一幕一幕の芝居のようで、次から次へとシーンが目の前を通り過ぎ、私の脳裏に深く刻み付けられている。またそれは、私を前に歩み続けるよう促してくれた、生涯忘れられない思い出でもある。
宇津井さん、どうぞ天国で安らかにお過ごしください。