「蓮玉庵」のそば

2025-10-28 11:19:00

劉徳有=文写真提供

上野の不忍池近くのそば屋「蓮玉庵」との不思議で深い縁は、今でも忘れられない。 

屋号の由来と文学の香り 

そば屋の屋号に「庵」の字を用いるいわれは何だろうか。言い伝えによれば、江戸時代、浅草の日輪寺近くにあった浄土宗寺院称往院の道光庵に、そば打ちの名手たる庵主がいた。そのおいしさは江戸中に知れわたり、人々が縁起を担いでこぞって模倣したという。 

「蓮玉庵」の名は、明らかに不忍池に咲く蓮の可憐な姿に由来する。この老舗の歴史は160年を超えるとか。初代店主久保田八十八は信州(現長野県)伊那谷の生まれ。風流を解する人物で、安政5(1859)年開業前の夏の朝、不忍池に赴いた折、蓮の葉に宿った玉のような露が朝日にきらめく幻想的な光景を目にし、突然インスピレーションを得て、「蓮玉庵」と命名したという。 

表通りに面しながらも小さな店構えのこのそば屋は、東京では有名店とは言えないが、由緒ある存在だ。文豪森鴎外が小説『雁』で幾度も描写し、作家劇作家の坪内逍遙や歌人の斎藤茂吉、作家の樋口一葉らが作品や日記に記していることからも、当時の文人たちにどれほど愛されたかがうかがえる。 

郭沫若氏をしのぶ宴 

「蓮玉庵」にまつわる幾つかの思い出は、今でも鮮明によみがえる。 

1983年9月から10月にかけ、李一氓氏が率いる中国国際交流協会代表団の一員として訪日した際のこと。東京到着翌日、当時日中協会会長であった茅誠司氏の招待で全団が「蓮玉庵」を訪れた。 

神田の古書店街を抜け、秋葉原の電気店街を過ぎてたどり着いた路地裏。車から降りて、白地ののれんと「蓮玉庵」の扁額が目に入ると、茅氏と初代駐中国大使小川平四郎氏が笑顔で出迎えてくれた。私は茅氏が東大教授総長時代に、大学から近く、そばがおいしくて安い「蓮玉庵」によく足を運んでいたことを聞いていた。しかし、茅氏があえてここを接待に選んだ真意は別にあった。 

着席すると茅氏はあらたまって静かに語り始めた。「本日ここでそばを振る舞うのは、78年に逝去された郭沫若先生をしのぶためです」 

5512月、中国科学院院長の郭沫若氏が中国科学代表団を率いて訪日した折にも、ホスト役だった日本学術会議会長の茅氏は同店でそばを供した。当時郭沫若氏が宿泊していた帝国ホテルでは洋食中心の食事が続いていたため、日本滞在時代にそばを好んでいたという情報を得た茅氏が配慮したのだった。特にニュース報道を通じて、郭氏が千葉県市川市に亡命していたときに小さなそば屋によく足を運んでいたことを知り、自分が昔からよく行っていた「蓮玉庵」を手配した。また、店主に「中国のお客様がくつろいで食事できるように、主人は同席せず、2階の座敷に案内して、何なりと要望に応えるように」と細かく指示を出していた。 

12月7日夕方、茅氏は私たちを「蓮玉庵」に案内した。確か馮乃超副団長も一緒で、私は通訳として同行した。2階の6畳間は低い長卓が置かれた小さな和室だった。私たちは長卓を囲んでそばを味わった。 

日本のそばの系譜と食べ方 

日本で庶民の味となったそばは中国伝来とされているが、多分そうだろう。奈良平安時代には救荒作物として蒸して食され、麺として普及したのは江戸時代の寛文4(1664)年から始まったと記録に残っているが、幕末の万延元(1860)年には江戸に3700軒のそば屋が存在し、「そば」を売っている小さな飲食店と食品屋台店が街角にあふれていて、約7000軒あったと言われている。これらの飲食店の戸には短いのれんが掛けられており、その上には「そば」と書かれている。「蓮玉庵」は、のれんの他に、戸に掛けられた横額が歴史を感じさせ、漢字の草書で書かれた店名は、古雅な雰囲気を醸し出している。 

現代のそばは簡素な食べ物ながら、様式が洗練されている。代表的な「ざるそば」または「盛そば」と呼ばれる食べ方は8割そば粉に2割小麦粉を混ぜ、延ばした麺をゆでた後、水に通し、ざる(竹すだれ)または小さな蒸し籠の上に置く。つゆは醤油砂糖みりんかつお節で作り、刻みネギや大根おろしを添え、音を立ててすする。辛い物が好きな人は、少し唐辛子粉を入れることもできる。 

「ざるそば」の他にも、「かけそば」(スープ入りそば)、「太打ちそば」(太い麺)、「天ぷらそば」(エビ天ぷら入りそば)などがあるが、郭沫若氏が最も好んだのはやはり「ざるそば」だった。 

郭沫若氏の揮毫(きごう)秘話 

あの夜、清酒の入った徳利と杯が運ばれるや、郭沫若氏は「一杯また一杯」と杯を重ねた。食後に店主が筆硯と色紙を持ってきて、郭氏に墨跡を残してもらおうとした。 

郭氏は喜んで、店主に2枚をしたためた。1枚目は、 

「そば五枚 

清酒二十杯 

十八年の望みを満たす」。 

2枚目は、 

「紅葉霜を経て久しく 

依然として故枝に恋す」。 

署名は連綿体の「郭沫若」、後者には「蓮玉庵」の上款。2枚の墨宝は、筆跡が流麗で奔放で力強い。1枚目の文面から、郭氏はその夜の主人の手配に非常に満足していたことが分かる。興味深いことに、「そば」という字を書くときに、一般的な平仮名ではなく、古風な仮名「楚波」で表記した遊び心、「五枚」は五膳分を意味する業界用語。普通は二、三膳で十分とされる中での「五枚」は、18年ぶりの日本で愛食を堪能した喜びの表れだった。「清酒二十杯」という一文は、郭氏が心を開いて酒を飲んでいる姿を生き生きと描いている。郭氏は1937年に抗日戦争に投身するために密かに日本を離れ、食事のときにはちょうど18年経過していた。今や旧地を再訪し、自分が好きなそばを食べ、日本酒を飲んで、本当に18年間の願いがかなった。 

2枚目の句は12月4日の箱根旅行時の作。紅葉に託した祖国への思慕がにじむ。 

時は流れ、再び「蓮玉庵」に集った李一氓氏と茅誠司氏の談笑に、店主が28年前の書幅を掲げる。6代目澤島孝夫店主は50歳近くで、近視眼鏡をかけており、言葉が少なく、恥ずかしがり屋だった。私が郭氏に同行してここに来たことを知ると、懐かしそうに「あのとき、私はまだ高校生でした。あっという間に30年近くたってしまいました。この2枚の色紙は私たちの店の家宝で、普段は大切に保管していて、決して出さないのですが、今日は中国のお客様が来られたので、掛け出して、歓迎の意を表しました」と語り、中国客への特別な計らいを明かした。 

茅誠司氏の秘蔵と回想 

茅氏も秘蔵の色紙を披露。7710月、夫人と訪中した折、病中の郭沫若氏へそばとつゆを届けた際の返礼として贈られた詩が記されていた。 

「茅誠司先生 

そばの恵みに 

五五年を回顧す 

深情け心酔い 

美味は餐を助く 

一九七七年十月六日 

郭沫若」 

病床の氏が日本からの贈り物に感謝し、交流の歴史を詠んだ一首である。 

食事の席で、主客は食事をしながら昔のことを語り、郭氏をしのび、とても和やかな雰囲気に包まれていた。李一氓氏は茅誠司氏に言った。「私は郭氏と広州からの北伐のときに知り合いました。その後、27年南昌の武装蜂起の際、周恩来氏と私の仲立ちで、郭氏は入党を果たしました。その後、氏は日本に行き、私は上海にいました。29年、30年、31年には、私は日本にいる郭氏と連絡を取っていましたが、その連絡の多くは当時上海の内山書店の店主の内山完造氏を通じて行われました。郭氏が書いた『中国古代社会研究』の原稿料も私が彼に送ったのです」。李一氓氏は続けて、「今日はご厚意で、郭氏が日本を訪問したときに食事をした店でそばを食べることができて、本当にうれしいです」。 

日本の友人たちの燃えるような友好的な思いを感じながら、筆者は心の中で考えた。28年前に郭氏が日本を訪問したときは、中日関係はまだ正常化していなかったが、今では中日関係はすでに正常化している。日本人は祝い事や大みそか、引っ越しのときにそばを食べる習慣がある。主にそばは幸運と吉祥の象徴とされているからだ。人々は家族全員が「子孫繁栄、健康長寿」であることを願い、引っ越しのときに大家や近所の人にそばを配るのは、「長く平和に暮らす」ことを表すためだ。筆者は、今日私たちが食べたのは、両国民が永遠に友好的に付き合うことを願う長寿麺だと思った。 

李一氓氏の揮毫と詩文余話 

日本流のもてなしとして、店主が李一氓氏に色紙への揮毫を懇請。李氏は筆を執り、 

「麺酒兼ねて味美しく 

中日の友情長し 

一九八三年九月 

茅誠司先生の招宴に感謝し 

蓮玉庵主人に捧ぐ」 

と記した。 

後日談がある。帰国後、日中協会事務局長白西紳一郎氏の訪中時に、李氏は宴席で新たに詠んだ漢詩を披露した。詩の前にはこのような一文が付けられていた。 

そばが大好物の郭氏が、1955年に再び日本を訪問したとき、茅誠司教授は蓮玉庵で食事を用意してもてなしました。今回、私が東京を訪問し、再びここで食事に招待され、昔の話を聞きましたが、残念ながら郭氏のように5枚続けて食べることはできませんでした。これを呈してご指導願います。 

「遊学は苦労を重ね  避難(むずか) 

つのる思い 長らく注ぐ利根川に 

ざるそば(かぐわ)し (たしな)み同じく 

今日 吾も尋ぬる 蓮玉庵 

九月二十日」 

この詩は、茅誠司氏の友好的な接待に対する一氓氏の気持ちを表しているだけでなく、郭氏との間の深い革命的な友情と郭氏を心からしのぶ気持ちを表している。 

 

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