ペルー人一家の中国との縁

2024-11-15 16:50:00

「人生の喜びは、心を知り合うことにある」。中国とペルーは山や海を越え、遠く隔てられているが、その友好的交流には長い歴史がある。人民日報が伝えた。

2016年11月、習近平国家主席はペルーでアジア太平洋経済協力(APEC)の第24回非公式首脳会議に出席し、国賓として同国を訪問した。ペルー共和国議会で「同舟相救い、帆を揚げて遠洋へ乗り出し、中国・中南米関係の素晴らしい未来を共に創造」と題する重要な演説を行った際、習主席は2人のペルーの友人に言及した。その一人が、ペルーの作家でありジャーナリストの亡きアントニオ・アルセ氏であった。

2016年11月21日、習主席はペルー共和国議会で「同舟相救い、帆を揚げて遠洋へ乗り出し、中国・中南米関係の素晴らしい未来を共に創造」と題する重要な演説を行った(撮影・鞠鵬)

当時、アントニオ・アルセ氏の娘であるロルデス・フェルナンデス・エスキベルさんは習主席の演説をインターネットで見て、感激の涙を浮かべていた。「父は素朴で謙虚な人だった。父がペルーと中国の国民間の友情を深めるために取り組んだ事を、中国の国家主席が認めてくれてとても光栄に思う」。アルセ氏と中国との結びつき、そして中国と中国文化への熱愛は、アルセ氏の若い頃にまでさかのぼる。

アルセ氏は中国で48年間暮らし、働き、中国とペルーの国交樹立の推進者の一人となった。若い頃、アルセ氏はペルー北部のチャンチャン遺跡が好きだった。インカ文明以前に存在したこの都市は、南米で最も古い都市の一つである。アルセ氏はチャンチャンの発音が「Changcheng」、すなわち「長城」に似ていると感じ、いつか中国に行くことを望んでいた。1960年代から社会主義中国の発展と変化に注目し続けていたアルセ氏は、ジャーナリストとして招待を受けて何度も中国を取材に訪れ、毛沢東氏や周恩来氏など中国の国家指導者の温かい接見も受けた。また、ペルー・中国両国の政党や民間団体の相互訪問、人的・文化的交流、友好都市協力のために多くの働きをした。

「『お父さんは中国から何を得たの?』と尋ねると、父は『初めてこの国に行った時、中国はまだ貧しかったが、困難を克服する勇気と気概があった。中国は自らの努力で解放を成し遂げた。将来、必ずリーダーシップを発揮できる。五千年の文化と科学技術の発展・進歩が、中国が次の世紀のリーダーとなることを支えている』と答えた」とエスキベルさんは語る。

1967年、再び中国に渡ったアルセ氏は当時の北京広播電台で働くことを選んだ。1970年に娘のメイメイ(梅梅)ちゃんが北京で生まれたが、不幸なことに生後数ヶ月で敗血症にかかり、命の危機に陥った。周恩来総理はこのことを知ると、すぐに専門家による治療を指示し、中国人民解放軍が直ちに兵士を病院に派遣して献血を行った。メイメイちゃんはこうして一命を取り留めた。「私はペルー人だけれど、心の中では自分が中国人だと思っている。私に第二の命をくれた中国に感謝したい」。メイメイさんは命を救ってくれた中国の兵士に今も恩義を感じており、父の足取りをたどるかのように、ペルーでペルーと中国の友好促進活動に携わっている。

2011年、中国とペルーの国交樹立40周年にあたり、アルセ氏が著した図録『永遠の記念碑へ-長城とマチュピチュ』が中国語、英語、スペイン語の3ヶ国語で出版された。この本でアルセ氏は中南米の人々に馴染みのある方法で長城の壮大さを描写した。「この壮大な建造物についてイメージするには、アンデス山脈の尾根に沿って、コロンビアからパタゴニアまで、6〜10メートルの幅と20メートル以上の高さがある巨大な壁を煉瓦や石で築くことを想像してみるとよい」。 

ペルーは太平洋対岸の中国の「隣人」である。家族のように親しい中国とペルーの友情は、早くから両国民の心に深く根を下ろし、芽吹いている。アルセ一家と中国の縁のような感動的な物語は他にも数多くあり、それらはいずれも中国・ペルー両国民の厚い情誼を生き生きと描写している。(編集NA)

「人民網日本語版」2024年11月14日