清らかなナシの花咲く 項羽と劉邦「決戦の地」
蔡夢瑶=文
「離離たり原上の草 一歳に一たび枯栄す」。白居易の『古原草を賦し得て別を送る』は中国で誰もがよく知っており、小学校の国語教科書にも取り入れられている。しかし、1000年以上前に創られたこの詩の「古原」が今日の安徽省北部の宿州市にあることは、あまり知られていない。
宿州は安徽、山東、江蘇、河南の4省の境目に位置し、古くから「中原唇歯」(中原地域と密接な関係がある場所)」と呼ばれている。「兵家必争」の地として、歴史上多くの有名な戦争がここで繰り広げられた。また、数多くの古い文化がここで誕生した。
山石草木に隠された歴史
英傑が集まる歴史の舞台
北京から宿州までは高速鉄道に乗ってわずか3時間ほど。宿州が管轄する碭山県、蕭県、霊璧県、泗県と埇橋区には異なる規模の高速鉄道駅や空港が点在しており、地域内の交通のネットワークが四方八方につながっている。昔からここには「舟車匯聚、九州通衢」(さまざまな乗り物が集まり、全国各地に通じる)という美称がある。605年、隋の煬帝が大運河(唐・宋時代以降は汴河と呼ばれた)を建設したことにより、宿州は次第に「汴河の交通を制御する南北交通線上の重要な場所」である軍事的要衝となった。
「うちの宿州という地にはね、至る所に歴史があるんだ。南には陳勝・呉広の乱(大沢郷起義)の場所である渉故台、北には劉邦が秦兵を避けるために隠れた皇藏峪、東には楚漢決戦の地・垓下の古戦場と虞姫の墓、西には李白が酒を飲んで詩を作った場所である宴嬉台というようにね」。蕭県の皇藏峪行きの観光バスで乗り合わせた地元の乗客は、宿州の歴史的な古跡について、非常に詳しかった。
各時代の歴史的な有名人、知識人たちが宿州に残した物語は、今日までずっと人々に語り継がれている。
宿州には、全国一名前が長いユニークな村がある。言い伝えによれば、ここは春秋時代、孔子の弟子である閔子騫の「蘆衣順母(単衣順母)」の物語の舞台となった場所だ。閔子騫は少年時代、継母に虐待され、冬服に蘆の穂綿をいっぱい入れられたため、手足がかじかんで牛車を走らせることができなかった。父親は彼が怠けていると誤解し、むちで打ったが、服から蘆の穂綿が飛び出たのを見て、ようやく継母の悪行を知った。閔子騫は幼い継弟のため、父親が継母を離縁しようとするのを止めた。このことに継母は感動し最終的に改心した。後に地元の人たちは閔子騫の親孝行を記念するため、村の名前を「孝哉閔子騫鞭打蘆花車牛返村」と変更した。
また、秦代末期のこと。900人の兵士が昼夜兼行で漁陽(今の北京市密雲区)へ辺境を守りに行った。途中、宿州の埇橋区南東部にある大沢郷の涉故台村に着いたとき、降り続く雨のせいで、道路が不通となり、行程が遅れた。これでは秦の法律で死刑になってしまう。兵士の陳勝と呉広は、当時の人々が鬼神を信じるという心理を利用して、事前に「陳勝王」(陳勝が王になる)と書いた布切れを魚の腹に入れておき、兵士たちがその魚を買って食べるように仕向けた。それから、毎晩「大楚興、陳勝王」(楚の国が興り、陳勝が王になる)と狐のまねをして鳴き続けた。こうして一歩ずつ、秦の暴政に抵抗する武装蜂起の道を歩んだ。この蜂起は失敗に終わったが、秦王朝の統治を根本から揺り動かし、劉邦と項羽が秦王朝を滅ぼす条件をつくり出した。
その後、西楚の覇王・項羽と漢王・劉邦が政権を争うために起こした楚漢の戦いは、宿州の歴史に鮮やかな一幕を残した。紀元前205年の春、劉邦と項羽が彭城で戦った際、負けた劉邦は、十数人の部下と各地を転々とした末、黄桑の木が生えている山谷に逃げ込み、追兵を避けるため洞窟の中に隠れた。その後、この山谷は「皇藏峪」と呼ばれるようになった。
皇帝が身を潜めた山谷
道中、春秋から秦・漢までの歴史を語っていると、観光バスが皇藏峪自然保護区の入り口に止まった。ガイドについて曲がりくねった山道をひたすら上っていくと、空と太陽を遮るほどの古木が目に入ってきた。春草が茂り、ウグイスが鳴く4月初旬、ほとんどの木の枝はもう浅緑の若葉でいっぱいだ。
「この根が絡まり合って、龍がぐるぐる巻き付いているような木はオウレンボクで、葉と皮は薬として使われます。さらに上にある樹皮が灰色になっているのはセイタンの木で、樹齢3000年以上です。前方のつるつるしているのはオウダンの木で、5月末になってから芽を出すので、『春知らず』とも呼ばれます」。ガイドの説明によると、保護区には貴重な種類の樹木が大量に生育しており、多くの木の樹齢が数千年に達しているという。
耳元でセミの鳴き声がひとしきり響いて、一瞬、季節がおかしくなったように感じた。「山の中の地形は特殊で、ここだけの独特な気候が形成されているため、ここのセミは3月から鳴き始めるんです。伝説によると、劉邦は当時ここのセミの鳴き声で馬蹄の音をかき消して、順調に追兵を避けたそうですよ」
セミと鳥の鳴き声を聞きながら、ガイドに案内され、切り立った崖の前までやって来た。目立たない洞穴が岩陰に隠れている。「ここが当時、劉邦が追兵を避けるために隠れた洞窟です。『皇藏洞』と呼ばれています」。それは天然の鍾乳洞で、内部は暗くて狭い。洞窟の中に数日隠れた劉邦は、その後少しずつ力を蓄え、人をよく知り才能に応じて任用し、最終的に項羽に打ち勝って、中原を統一し、漢王朝を建てた。
「覇王別姫」の絶唱
楚漢戦争の最後の一戦は、今日の宿州の霊璧県で起こった。歴史上では垓下の戦いと呼ばれる。紀元前202年、劉邦は項羽を垓下で取り囲み、韓信はあちこちに伏兵を配置し、楚軍が包囲を突破できないようにし、張良は兵士たちに楚の歌を歌わせるという策を出した。項羽は漢軍に完全に包囲されたと思い込み、とばりの中で感極まって涙を流しながら歌った。虞姫は、包囲突破の後顧の憂いをなくすため、剣を引き抜いて自ら首をはね、「覇王別姫」の永遠の絶唱を残した。
皇藏峪から霊璧県の覇王文化園まで車を走らせた。白い壁と黒い瓦の古風な回廊の中に残された古今のあまたの知識人による書画と石碑からは、この永遠の絶唱への遺憾、哀悼、称賛の意が伝わってくる。園内の虞姫の墓には1本の桃の木が生えており、毎年春に珍しい白い花を咲かせる。
言い伝えによれば、項羽は虞姫をここに埋葬した後、800人の騎兵を率いて夜を徹して包囲を突破したが、烏江に着いたときには、わずか28人しか残っていなかった。「失敗して恥ずかしく、故郷の人々に会わせる顔がない」と感じ、最後には烏江で自ら首をはねて死んでしまった。こうして楚漢の覇権を争う歴史に終止符が打たれた。
「野火焼けども尽きず」
歴史の車輪を唐の時代まで推し進めよう。当時10歳だった白居易は、両親について一家で宿州市埇橋区の符離集に引っ越してきた。ここで22年間生活し、符離集の古原の草を褒めたたえる永遠に歌い継がれる名句――「野火焼けども尽きず、春風吹いて又生ず」を書いた。しかし、今日では符離集と言えば、全国的に有名なご当地グルメ・符離集の丸鶏の揚げ煮を思い浮かべる人が多いだろう。110年ほど前、京滬(北京–上海)鉄道の前身――津浦鉄道の駅が符離集に置かれた。それにより、骨が抜け落ちるほど肉が柔らかく、脂肪が多いが脂っこくない符離集の丸鶏の揚げ煮が全国各地へ運ばれるようになった。
楚漢文化の重要な発祥地として、宿州の地には、後世に知られる英雄の足跡だけでなく、当時の人々の日常的な労働や生活の痕跡も数多く残っている。宿州市博物館には、漢代の「青銅鈁」(酒器)が収蔵されており、発掘されてからずっと密封状態で保存されているため、中にはまだ約3分の2の液体が入っている。専門家の抜き取り検査によって、それは漢代に醸造された清酒と推定された。
また、博物館内には、隋・唐時代の大運河の川床の横断面、宋・金時代の磁器、明・清時代の書画なども陳列されている。歴史の大河はこれまで宿州という舞台を冷遇したことはなく、古今の各界の英雄たちが次々と登場し、数え切れない感動的な「永遠の絶唱」を演じてきた。そして、先人たちが代々受け継いで残してきた文化の火種も、まさに「古原の草」のように、歳月の洗礼を経てもなお明るく輝いているのである。
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