千年の時超え残る古建築 独特な各種麺料理に舌鼓

2024-11-01 15:40:00

李家祺=文 VCG=写真 

朝日が朔州の古い城壁の遺跡に差し込むと、眠っていた町が目を覚ます。通りには朝食の香りが漂い、蒸し立ての「莜麺窩窩(ヨウミエンウォウォ)」や、甘くてしっとりとした「黄糕(ホワンガオ)」が、町の温もりを味覚によって訴える。 

朔州は山西省の北部に位置する小さな町で、物価が安く、生活のリズムがゆったりしている。しかしここ数カ月、『西遊記』を題材にした中国初の3AアクションRPGゲーム『黒神話:悟空』が大ヒット、一部のシーンのロケ地となった朔州は注目され、観光地として人気を博すようになった。 

人気ゲーム聖地巡礼の地  

唐朝(618~907年)が滅びた後、中国の北方地域は長い間政権が乱立し、頻繁に交代する混乱期を経験した。遼朝(907~1125年)後期から金朝(1115~1234年)にかけて、常に都の周辺地域や後背地として長く栄えた朔州には、遼金文化が深く刻まれた。 

朔州には遼金時代に残された建築物、彫刻、絵画などの貴重な文化遺産が保存されており、『黒神話:悟空』のロケ地である応県木塔や崇福寺弥陀殿はその代表格だ。 

辺境の少数民族支配者の豪放な性格を反映しているのか、遼金時代の建築物はほとんどが壮大で、近づくと圧倒的な歴史の重みを感じることができる。 

「生きている」木塔  

「手がすっぽり入る!」。応県木塔最下層の回廊にある木柱の下で、眼鏡をかけた少年がしゃがみ込み、木柱と礎石との間にある隙間をじっくりと観察していた。少年は左腕の時計を確認しながら、右手の指を隙間に差し込んでみた。すると、第2関節部分まで指がすっぽりと入った。 

「昨日の朝10時半に見たときは、柱と地面がぴったりくっついていて、指なんて入らなかったのに! どうして?」と少年は驚きの声を上げた。 

応県木塔の正式名称は「仏宮寺釈迦塔」で、朔州市の応県にあり、遼の清寧2(1056)年に建てられた。イタリアのピサの斜塔、フランスのエッフェル塔と並んで「世界三大奇塔」として親しまれている。 

木塔は高さ671320階建てのビルに相当する高さを誇り、現存する世界で最も高く、最も古い純木造の楼閣式建築だ。その本体は10万を超える木製の部材で構成されており、昔の職人たちは釘一本使わず、ほぞ継ぎの工芸だけでこの塔を完成させた。 

史料によると、木塔は建立以来40回以上の地震や多くの戦火を経験してきた。本体の柱や(はり)には今なお多数の弾痕が残されている。それでも、千年近く経った現在も木塔は倒れることなく、静かに立ち続けている。 

木塔にまつわる秘話や伝説も多く語り継がれている。塔の回廊にある24本の柱が交互に宙に浮いているという不思議な現象は、市民や観光客の好奇心をかきたて、「木塔は生きている」と言い伝えられるようになった。24本の柱が交替で「休息している」という噂もある。 

では、宙に浮いた木柱は、なぜ木塔の耐荷力に影響しないのだろうか? 

応県木塔は4の土台の上に建てられ、上から見ると八角形をなしている。正面から見ると、本体は五層六檐の構造で、第一層が重檐になっている以外、上の各層は全て単檐になっている。各層の間には隠れた階層があり、実際には九層構造となっている。 

研究によると、屋根を除く全ての階層は基本的に同じ構造で、内外二重の木柱で支えられている。外側には24本、内側には8本の木柱があり、二重の八角形を形成している。内側には仏像が安置され、外側は人々が歩けるように設計されている。また、隠れた階層には多くの三角形の支柱が設置されており、トラス構造を形成して建物の安定性を高めている。これらの隠れた階層は、竹の節のように木塔の剛性を強化している。 

塔の一番下に立って見上げると、いくつもの斗拱(ときょう)斗組(ますぐ)み)がまるでハスの花のように軒下に「咲いている」のが見える。 

斗拱は通常、柱と梁の接合部に設けられ、いくつかの四角い「斗」と弓状の「拱」をほぞ継ぎで組み合わせて作られる耐荷構造だ。動かないように固定されてはいないため、強風や地震などに見舞われると木材同士が少し動き、摩擦が生じて、一部のエネルギーを吸収し、損傷を防いでくれる。 

この丈夫な内外二重の骨組み構造と、ほぞ継ぎと斗拱の柔軟な組み合わせにより、建築の頑丈さと安定性が保障されているのだ。一方、木塔の一番下の回廊は塔本体の外側に位置し、回廊上の柱は軒を支えるだけとなっている。つまり、木塔にスカートをはかせたような構造になっており、回廊の柱はスカートの下にはくパニエ(6)のようなもので、塔の耐荷にほとんど影響を与えないのだ。 

この精巧な建築構造に加え、応県木塔が今日まで保存されているのは、毎日欠かさず塔を守ってきた人々のおかげでもある。 

20代の頃、木塔が火事になる夢を見て、目が覚めると号泣して体が震えていました。それから何度もそんな悪夢を見ました」と、木塔の文化財管理人謝関勝さん(67)は語る。彼は定年退職後も再雇用され、今は夜勤を担当している。 

「ピッピッ、現在の時刻は午前0時50分です」 

目覚まし時計のディスプレーが光ると、謝さんは事務所兼寝室にある質素なシングルベッドの布団を整え、鉄製の洗面器で顔を洗い、厚手のコートを羽織って懐中電灯を手に見回りに出掛けた。 

「夜間は最低でも5回は回らなければなりません。だいたい30分ごとに1回ですね。危険がありそうな場所を見つけたら、すぐに対応します」と言いながら、塔の基部にある通気口にかがみ込み、ライトの光をあてて念入りにチェック。「これらの通気口は換気して柱の湿気を防ぐためのものです。注意深く調べて、火の元がないか確認しなければなりません」  

謝さんは50年近く応県木塔と共に過ごしてきた。木塔は彼の人生の中心であり、かけがえのない存在だ。「木塔が私を必要としているというより、むしろ私が木塔を必要としているんですね。長い時間を過ごすうちに、この場所から離れたくなくなってしまったんですよ」と語る彼の言葉には、塔を守り続ける深い愛情と献身が込められている。 

日常生活に隠れた金代の遺風  

朔州市内から遠く離れた応県木塔とは異なり、崇福寺は朔州の旧市街地にひっそりとたたずんでいる。 

山門をくぐり、明や清の時代に再建された金剛殿、千仏閣、大雄宝殿を通り過ぎると、高さ2の台座の上にそびえ立つ単檐歇山頂(単層の入母屋造)の大殿が目に飛び込んでくる。幅40、高さ20にも及ぶこの大殿こそ、崇福寺の主殿「弥陀殿」だ。 

屋根を飾る緑色の瑠璃瓦は太陽光に照らされてきらめき、棟の両端には精巧な造りの「鴟吻(しふん)」(中国古代建築に見られる装飾的な構造物で、龍の頭と魚の体を持ち、水を噴き出す能力があるとされ、防火の象徴とされている)が鎮座している。さらに、棟の上には琉璃の武人像が立っており、両足を開き、両腕を胸の前で組み、威厳に満ちた表情で大殿を見守っている。 

弥陀殿は、金の熙宗(きそう)の皇統3(1143)年に建立され、その内部の塑像、壁画、外の扁額(へんがく)、彫刻が施された窓、屋根の琉璃装飾は金代の「五絶」とたたえられている。 

その中でも目を引くのが、金の第5代皇帝である世宗完顔雍(1161~89年在位)の時代に作られた巨大な「弥陀殿」の扁額だ。これは、現存する中国最大の金代の扁額でもある。 

その下にあるのが高さ約3の華麗な彫刻が施された窓と扉。通常、建物がどの時代に属するかは、骨組みを指していうことが多い。一方、建物内部の装飾や扉、窓といった小さな構造物は、消耗しやすく替えがきくため、たいてい比較的新しいものだ。しかし、弥陀殿の正面にある扉や窓は、金代の建立時から残っているもので、その精緻で多彩な文様のデザインは、当時の職人たちの創意工夫の結晶だ。千年の時を超えてもなお、虫食いや腐敗から逃れ、現代まで残り続けていることは、まさに奇跡といっても過言ではない。 

弥陀殿の内部に入ると、壁一面に広がる金代の壁画が殿内の空間をより豊かに見せている。中でも特筆すべきは、高さ468の千手観音像だ。多くの寺院の壁画では、千手観音の「千手」を象徴的に表現するため、手腕が2040本程度しか描かれないことが一般的である。しかし、弥陀殿の絵師たちは、実際に900本以上の手腕を描き、それらが圧倒的なスケールで観音像を取り囲んでいる。この壮麗な姿を前に、訪れた者は自分の小ささを実感せずにはいられないだろう。 

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