泉の都から海岸の仙境へ 影絵と秧歌彩る斉魯の地

2025-07-28 16:27:00

烟台――東洋の海上シルクロードの真珠 

泉の都済南の潤いと詩情を後にし、東へ進むと、湿った海風が顔に当たり、眼前には煙台の広大な海岸線が広がる。ここは海と空が一体となり、島々が点在し、古風なあずまやや楼閣が雲霧の中に浮かぶ仙境のように見える。 

仙人が力競った海岸 

煙台市蓬莱区、海岸沿いの丹崖山は雲霧に半身を隠し、朱色の蓬莱閣がまるで山頂に浮かんでいるように見える。この北宋嘉祐6(1061)年に建てられた建物は、何代もの修繕を経て、千年近くの海風に耐えている。夏の雨上がりの晴れた日に訪れると、不思議な「蜃気楼」に出会える可能性がある。雲霧の中にあずまやや楼閣が浮かび、町の人々が動き回る姿が見え、しばらくすると空に消えていく。この神秘的な現象によって多くの観光客が蓬莱に引き寄せられている。北宋の文豪蘇東坡が登州(現在の蓬莱)知事を務めていたとき、「東方雲海空復空,群仙出沒空明中(東の雲の海は果てしなく広がり、仙人たちが澄んだ空に出没する)」と詠んだことで、蓬莱の「仙境」という名はますます遠くまで広まった。 

蓬莱閣と向かい合う海岸には「八仙渡海口」があり、8人の仙人が法具を手にした彫像が、誰もが知る伝説を物語っている。鉄拐李(てっかいり)何仙姑(かせんこ)呂洞賓(りょどうひん)ら八仙は酒を飲んで酔い、蓬莱の海岸に来て、舟を使わずに海を渡ることで各自の神通力を競った。鉄拐李の薬壺が軽舟に変わり、何仙姑の蓮の花が蓮台に変わる……八つの法具がそれぞれ波の上で力を発揮した。法具が引き起こした波の乱れが東海龍王との衝突を招いたが、八仙はついに海を渡ることに成功した。面白いことに、八仙の性別が七男一女だったためか、中国の沿岸部では今なお「七男一女は同じ船に乗らない」という民俗的なタブーが残っている。 

丹崖山の麓の蓬莱水城では、れんがと石で築かれた城壁がまるで巨大な龍のように海湾へと突き出している。ここはかつて、泉州明州(現在の寧波)揚州と並び、中国「古代四大港」の一つとして名をはせた登州港だった。唐の神龍3(707)年、登州の州府がこの地に移されると、古登州港には無数の帆船が行き交うようになった。新羅の商船がここで貨物の積み下ろしを行い、日本からの遣唐使の官船がここに停泊し、精巧な陶磁器を満載した中国の商船がここから帆を上げ、朝鮮半島を経由して日本の博多港を目指した。秦漢時代からすでに登州港は朝鮮半島や日本列島へと通じる出海口であり、唐宋時代には、東方海上シルクロードの重要な港となっていた。 

海と共に暮らす知恵 

蓬莱の海岸でそれぞれの力を発揮した「八仙」から、登州港で遠洋に向かった船団まで、広大で気まぐれな大海に対し、煙台の人々は古くから畏敬の念を持ち、共生し、開拓してきた。この「海に向かって生きる」生活の知恵が、「海を切り開く人」の血筋に代々受け継がれている。 

毎年旧暦正月13日か14日、煙台の45にわたる海岸線にある十数の漁村では、年に一度の伝統行事「漁灯節」が開かれる。漁民たちは豚の頭、膠東(こうとう)(山東半島東部)の大きな蒸しパン、そしてその年に獲れた最大のサワラを担ぎ、真っ赤な供物箱が人々の間を巡る。人々は彩り豊かな旗を高く掲げ、爆竹の音が響き、太鼓の音がとどろき、ヤンコ踊りの赤いリボンが波のように揺れる。行列はまず海神娘娘廟に向かい、漁民たちはニンジンを彫った漁灯を神棚に供え、「人も船も安全で、魚介も満載になりますように」と祈る。次に港に向かい、船に供物を並べ、日々共に過ごす船を祭る。最後に海岸に集まり、何千という漁灯を潮に流す。夕暮れになると、海面に浮かぶ明かりが星河のように光り、波の音に混じって、漁民たちの遠く航海に出た家族への呼び掛けが聞こえてくる。 

漁灯節の湾には、海陽大ヤンコの色とりどりの行列が波のように押し寄せる。600年近い歴史を持つこの舞は、漁村の祝祭に欠かせない色どりだ。 

先頭の「楽大夫」が行列の指揮を執り、払子(ほっす)を手にして落ち着いた足取りで進む。後ろに続く「花鼓」が跳び回り、腰鼓をドンドンとたたく。滑稽な動きをする「醜婆(ひょうきん婆さん)」と「小子(おとぼけ小僧)」が漁民たちを笑わせる。この行列の中で特に目立つのは、がっしりとした体つきの修建国さんだ。彼は海陽大ヤンコの国家級無形文化遺産の代表的な継承者で、9歳の頃からヤンコの太鼓の音と共に育った「楽大夫」だ。 

煙台では、年越しや祭りのときにヤンコの太鼓が鳴ると、老若男女が殺到し、壁の上、屋根の上、木の上にまで人があふれる。 

修さんは今でも、ヤンコを始めた当時のことをはっきり覚えている。「村のヤンコ隊について、2日間で五、六カ所の村を回って演じ、家に帰ったら腰が痛くてベッドに上がれず、椅子につかまってようやく上がりました」 

ヤンコ上達のため、修さんは10代の頃に「螳螂拳(とうろうけん)」の師匠のところで修行した。数十年にわたる研究と修練の末、彼はヤンコを携えて中国中央テレビ(CCTV)に出演し、中央民族大学や北京舞蹈学院で講義し、より大きな舞台に進出した。全国から多くの学生が彼の名を聞いて弟子入りに来た。なお喜ばしいことに、息子も彼の跡を継ぎ、ヤンコの修練に励んでいる。 

「この技を後世に伝えていくことは私の夢であり、責任と使命でもあります」と、漁港の夜空の下で踊る人々を見ながら、修さんは確信に満ちたまなざしで語った。 

港町の味の記憶 

「風土が人を育てる」という中国の俗語通り、渤海の荒波は、煙台の人々に「漁灯節で海神へ祈り、ヤンコで思いを伝える」という生活の知恵を授けただけでなく、海の恵みを街角に息づく味覚の記憶へと変えた。 

多くの蓬莱の人々の一日は、200年の風味を宿す「蓬莱小麺」の一杯から始まる。朝早く、テーブルを囲んだ人々の目線は自然と調理台へと向かう。職人が両腕を大きく広げて麺の生地を伸ばし、振り上げては台にたたきつける。「バン!バン!バン!」という乾いた音が、町の朝の目覚まし時計のように響く。 

この麺の神髄は「3度の水、3度のかんすい、81回のこね」という古来の製法にある。熟練の職人が手のひらで何度も押し伸ばし、打ち付けて生まれる極細の麺は、滑らかで歯応え抜群。まさに時間と力が生んだ技の結晶だ。 

具材もまた、この一杯の妙味を引き立てる。シャキシャキと香る香椿の若葉、ほどよく酸っぱい漬け大根、濃厚な海鮮だれをひとさじ……トッピングは自由自在。金色の油が浮かぶスープの中で、細く長い麺が海の旨味を絡めて口の中へと滑り込み、ひと口ごとに香りとコクが重なり広がっていく。 

蓬莱小麺の省級無形文化遺産継承者王福禄さん(67)は16歳で師匠に弟子入りし、50年以上にわたって研究を重ねてきた。彼は膠東各地のベテラン職人を訪ね、各流派の長所を吸収した。その味を故郷を離れた人々に届けるため、さらに蓬莱の海の味を全国に広めるため、即席蓬莱小麺を市場に展開した。「フリーズドライのソース付き即席麺は熱湯を注ぐだけで食べられ、濃縮ソース付き即席麺は麺をゆでた後にソースをかけます。濃縮ソースは蓬莱小麺の風味を90%再現しています」と説明する。 

今やこの無形文化遺産の麺は蓬莱の文化の顔となった。蓬莱閣観光エリアでは、観光客が職人の麺打ちの妙技をガラス越しに鑑賞している。即席麺をお土産に購入すれば、どこにいても蓬莱の味を「再現」できる。 

夜のとばりが降りると、煙台の味覚はネオンきらめく南洪街夜市で一気に花開く。500にわたって明かりのともる回廊では、イカが熱々の鉄板の上でジュージューと丸まり、小麦粉料理店のせいろからは湯気が立ち上る。ゆでたての牛肉麺には真っ赤なラー油がかけられ、酸辣粉(酸っぱくて辛いスープ春雨)の屋台から漂う酢と山椒の香りが通行人の足を止める。人波の中を歩けば、耳に飛び込んでくるのは、カリカリの豚バラが油で弾ける音、サンザシあめ売りの軽やかな呼び声、鉄板をこする焼き冷麺のヘラの音……油煙と笑い声が夜の空気に溶け合い、この海辺の町の庶民的な温もりは、湯気立つ一口一口の中に確かに息づいている。 

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