蹄音とどろく草原の記憶 陶片が開いた古代の地平
五千年の眠りから覚めた文明
2010年の春、コルチン草原の奥地にある小さな村・ハミンアイレガチャ(哈民艾勒嘎査)で、王さんという一人の羊飼いが歴史の扉を開けた。放牧中の羊が掘り返した土の中から、小さな麻点模様の陶片が顔をのぞかせたのだ。不思議に思った王さんは、さらに土を掘り返し、半分割れた陶器のつぼを掘り出した。それは、5500年もの時を超えて姿を現した、先史時代の集落跡への鍵となった。
「北緯43度の厳しい寒冷地にこれほどの定住集落が存在していたとは、誰も想像していませんでした」。ハミン遺跡サービスセンターの主任・董哲さんは、ハミン遺跡考古公園の入口に立ち、そう語る。
発掘調査の結果、目の前の広大な大地の下には、総面積約17万平方㍍(サッカー場24面分)にわたる先史遺跡が眠っていた。出土品の年代測定から、それは今から約5000~5500年前に栄えた文明であることが明らかになっている。
展示館に足を踏み入れると、21基の住居跡がそのまま保存されている。黒く炭化した木の柱は崩れているものの、梁と柱をつなぐほぞや凹凸の痕跡がくっきりと残り、当時の建築技術の高さを物語っている。「見てください、焼き締められた地面と、草を混ぜた土壁。人々はすでに基礎を築き、断熱のために草と土で壁を塗り、屋内には火床を設けて、氷点下30度の寒さから命を守っていたのです」と董さん。
古代人の知恵に驚嘆しつつも、訪れる人々の胸を締めつけるのは、その過酷な運命を物語る痕跡の数々。わずか18平方㍍にも満たないF40号住居跡には、なんと97体もの人骨が密集して出土した。「その多くが女性と子どもです」と、董さんは重い口調で続ける。「遺骨の姿勢はばらばらで、赤茶けた家屋の焼け跡と入り混じっています。言葉を失うような凄惨な光景です」。この遺構から一つの仮説が導き出された――それは、外敵による襲撃と集団虐殺。男たちが遠征に出て留守の間、村に残った女性や子どもが敵の急襲に遭い、住居に閉じ込められたまま焼かれて命を落としたというのだ。
F58号住居跡の入口では、口に自身の腕がはめ込まれた状態で倒れていた一体の人骨があった。「きっと彼は、濃煙から逃れようと口と鼻を覆い、もがきながらも、ついにこの敷居で力尽きたのでしょう……」。火種を保管していた土坑、散乱した陶器の破片、焼却に使われた灰溝……5000年前の人々が日々を営んでいた痕跡がありありと目の前に現れる。そして、それらは彼らの命が絶たれた瞬間で時が止まっているのだ。この静かで凄絶な風景は、訪れる人の胸を深く打つ。
展示館を出て博物館へ足を進めると、ひときわ目を引くのは展示ケースの中に鎮座する、ぽってりとした黒陶の子豚。「この丸いお腹の中には、炭化したアワとキビがたっぷり入っていたんですよ」と董さん。石臼に残されたデンプンの粒、土器に混じる魚や豚の骨――これらは、ハミンの人々が農耕・狩猟・牧畜を組み合わせた「立体的な経済」をすでに築いていたことを物語る。さらには、麻の栽培まで行っていたとみられ、これを繊維にして縄を編んでいた痕跡まで見つかっている。これらの証拠は、この地が中国北方における「乾地農業」の発祥地の一つであったことを裏付けている。さらに興味深いのは、西遼河流域に位置するこの場所から、多数の貝製の道具が出土していること。丸みを帯びた貝殻は、5000年前のハミン人たちのスプーンだったという。
ハミン遺跡公園の敷地内を歩くと、芝生に立つ小さな木札があちこちに見られる。それぞれに「房址(住居跡)」と書かれた札の下には、保護のために埋め戻された先人たちの家が眠っている。それは、現代の私たちと過去の人々との時間をつなぐ目印のようにも感じられる。
公園の奥には、住居跡をもとに復元されたかやぶきの半地下式住居が静かにたたずみ、夕日がその屋根を黄金色に染めている。その光景を見ると、骨の針で貝のネックレスを編む少女、石臼でアワをひく老人、環濠の外では、男たちが西遼河で飛び跳ねるサケを骨製のヤスで仕留め、そして、篝火のそばでは、シャーマンの手に握られた玉の環が神秘的な緑の光を反射させている――そんなシーンが、時間を超えて、思わず目の前に浮かび上がってくるのだった。
上一页1 |