新中国誕生の歴史に立ち戻って

2024-09-25 15:25:00

歴史的意義を振り返る 

中華人民共和国の成立は、中国社会が人民民主主義から社会主義に向かって歩みを始めることを意味しました。中国人民は中国共産党の指導の下に、苦しく、厳しい戦いを経て、帝国主義、封建主義、官僚資本主義の支配を覆し、革命の勝利を勝ち取り、中国の歴史は新しい歩みへとページを開くことになりました。冒頭で、中国革命における重要な「通過点」と表現した意味です。 

天安門広場に集まった人々の表情からも分かるように、新中国の誕生は希望に満ちていました。しかし、抗日戦争そして国共内戦によって社会は疲弊し、インフレが更新し、生産は停滞して、人々の生活は非常に苦しい状況にありました。新中国はまず経済の回復に取り組む必要がありました。かつて国民党政府の下で働いていた人々に対しても、新中国において働くことを望むならば、地位、職業、給与は従来通りという保証が与えられました。こうして、およそ3年で経済は回復したとされます。これらを主導したのが中国共産党でした。今回の「三中全会」においても中国共産党のガバナンスの強化と党建設の制度改革の深化、清廉な政治を行う党風の確立、人民に奉仕することを強く呼び掛けている原点をここにも見ることができます。 

もう一つ、新中国の外交政策の原点についてです。「共同綱領」で、「国民党反動派と関係を絶ち、また中華人民共和国に対して友好的態度をとる外国政府に対しては、中華人民共和国中央人民政府は、平等互恵および領土主権の相互尊重を基礎として交渉を進め、外交関係を結ぶ」としました。10月1日に宣言した中華人民共和国中央人民政府公告でも、「本政府は、中華人民共和国を代表する唯一の合法政府である。平等互恵および領土主権の相互尊重の原則を守るいかなる外国政府でも、本政府はこれと外交関係を樹立することを願う」と述べています。中国はこのときからいわゆる「二つの中国」をつくる策謀は許さないという原則を明確にしていたのです。この原則は現在に至るまで一貫して揺るぎないものであることを忘れてはならないと言えます。 

新中国誕生の衝撃と日中関係 

新中国の誕生が第2次世界大戦後の冷戦下の時代であったことは述べましたが、1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発しました。ただし、戦争はある日突然起きるのではなく、そこに至る国際関係をきちんと踏まえておかなければなりません。そのことを前提にした上で、25日に戦争勃発としておきます。27日には、米国は台湾海峡に第七艦隊を派遣し、台湾防衛を宣言しました。朝鮮戦争において、米軍が38度線を越えて中国国境に迫ったことで、1025日、中国人民志願軍が朝鮮戦争に加わることになりました。こうした中で中ソを除外した対日講和という米国の方針が明確になります。米国はまず対日講和七原則を発表し、次いで51年7月には、米英両国は対日講和最終案を公表、日本は単独講和の道を選択することになります。しかし、忘れてはならないのは、日本が無条件降伏した45年8月15日、抗日武装勢力を率いていた抗日軍総司令朱徳氏は、米英ソ3国に対し、「中国解放区および全ての地区の抗日武装勢力は、将来の対日講和および国連会議に参加する自己の代表団を選出する権限を持たなければならない」と主張しました。すなわち、中国はこの当時から対日講和参加を主張していたのです。また、単独講和となるサンフランシスコ平和条約締結前の1年間に、周恩来総理は3度にわたり「中華人民共和国政府の参加は不可欠である」と、講和条約に対する中国の態度を表明していました。これらの全ては、新中国の誕生と切り離せない重要な国際情勢の推移として記憶にとどめておく必要があります。 

その後、吉田首相は米国の方針に従い、51年9月8日、中国、ソ連などを除く連合国との間にサンフランシスコ平和条約を締結するとともに、日米間に日米安全保障条約を結ぶことになります。さらに、吉田内閣は、1117日には台北に在外事務所を設置、1214日付のダレス米国務長官宛ての書簡で、吉田首相は、当時台湾に「逃げ延びていた」蒋介石政権との間に「平和条約」を結ぶことを誓約する一方、「中国の共産政権と二国間条約を締結する意図を有しない」と記しました。こうして、いわゆる「日華平和条約」は52年4月28日に台北で結ばれることになりますが、この日は、サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約が発効した日だったことは重い意味を持つ歴史だと言えます。その後の日中関係に禍根と言っても過言ではない重い「問題」を残すことになったのです。 

誕生への認識深め中国を理解 

今稿ではアジアアフリカラテンアメリカ、すなわち、かつて帝国主義による支配、収奪に苦しんだ発展途上国、今でいうところの「グローバルサウス」諸国の人々に希望をもたらした新中国の誕生について触れることができなかったのをはじめ、「新中国誕生の衝撃」を多角的に語ることができませんでした。しかし、中国革命の長途という長い歴史的視界において、新中国誕生をどう受けとめるのか、世界が、なによりも日本の私たちが試され、問われてきた歴史があることを知る必要があると考えます。それが未来に向けて選択を誤らないためにいかに大事なのか、とりわけ現在の日中関係を見据えるとき、このことを忘れてはならないと考えます。さらに言葉を継げば、新中国の誕生、すなわち中国革命の途上における中国への理解、認識が欠けるなら、中国の現在への「見損ない」が起きるということを深刻に知らなければならないということです。 

中国の存在が世界史的に大きくなればなるほど、中国革命と中国共産党、そして中国の社会主義建設の過程への認識を深めることなく中国は見えてこないということです。このコラムの掲題を「望見心耳」としていますが、私たちが本当に目を見ひらき、真剣に目を凝らし、そして心を耳として、中国の「鼓動」を見つめ、聴くことを願うものです。 

 

木村知義 (きむら ともよし)   

1948年生。1970年日本放送協会(NHK)入局。アナウンサーとして主にニュース・報道番組を担当し、中国・アジアをテーマにした番組の企画、取材、放送に取り組む。2008年NHK退職後、北東アジア動態研究会主宰。  

人民中国インターネット版 

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