「七・七」に考える戦後80年

2025-07-07 09:16:00

文=ジャーナリスト・木村知義 

「戦後80年」という節目を迎えて、年明けから、メディアではかつての「大戦」にかかわる企画が重ねられています。そうした記事や番組に接しながらなんとも言い難い「違和感」を抱いて年の半分が過ぎました。その「違和感」をひと言で言うなら、従軍体験、あるいは空襲にしても疎開生活にしても、当時のわれわれ日本人の「悲惨」について語ることばかりに終始していることです。来月、8月は「終戦の日」(この言葉が内包する問題は、すでに過去の本欄でも述べましたが、日本の「敗戦」の歴史的意味をあいまいにするものです)を控えて、そうした「終戦企画」がまさに目白押しとなるでしょう。 

しかし、その前に、今月7日は1937年の「盧溝橋事件」(「七・七事変」)から88年となります。そこで、「七・七」を見据えながら、「戦争の歴史」をる問題意識の一端を述べておこうと考えました。 

日中戦争は「七・七」に始まったのか 

まず、「盧溝橋事件」が取り上げられる際には、「日中戦争の始まり」として語られることが多くあります。あるノンフィクション作家は「二・二六事件の翌年である昭和12年に日中戦争が起こり…」と述べています。今テレビで放送中の連続テレビ小説『あんぱん』の中で、「中国で戦争が始まって2年がたち」とナレーションが流れたその時は1939年でした。ある新聞の「戦争特集」では「一九三七年(昭和十二年)七月七日、蒸し暑さの残る夜の闇を、乾いた銃声が貫いた。中国・北京郊外の盧溝橋。演習中の日本軍が発射した空包に対し、数発の実弾が飛来したのだ。部隊集結の際、また十数発。八日未明、さらに三発の銃声。牟田口廉也連隊長は、中国軍への反撃を指示した。当初、これが日中全面戦争につながるとは、多くの人は思わなかった」と書き起こしています。(事実関係に関わる議論は置いて引用。また、戦争は自然現象のように起きたり始まったりするものではありません。日中戦争が「起きた」「始まった」という表現がはらむ問題も、ここでは置いて論を進めます) 

「日中戦争」をどういう時間軸で捉えるのか、歴史家の中でもさまざまに議論が重ねられていることを承知の上で、あえて問題提起するなら、私たちが中国での戦争をどこまでさかのぼって意識するのかはとても大事な問題だと考えます。少なくとも、1931年の「柳条湖事件」に端を発するいわゆる「満州事変」「九・一八事変」、さらにさかのぼる1928年6月の「張作霖爆殺事件」まで視界に入れて、歴史の連続性の中で日中戦争を捉えておくべきだと考えます。言うまでもありませんが、1932年の日本による{かい らい}傀儡国家「満洲国建国もこの中に位置けられることは忘れてならないことです。 

なぜこうした「連続性」にこだわるかと言えば、日本の中国大陸への侵略という問題と切り離せないからです。つまり、私たちが知っておくべきことは、日本の中国侵略の歴史として、それぞれの「出来事」の{つな}繋がりをしっかりと認識しておかなければならないということです。そうでなければ、前述の新聞の特集にあるように「これが日中全面戦争につながるとは、多くの人は思わなかった」という重大な欠落が起きるのです。歴史の「連続性」を忘れると、その時々のことが単なる断片としての出来事としか見えてこず、その後の「行き方」を誤ることになると考えるのです。日中戦争は「七・七」に始まったのではないのです。 

国民はこぞって「熱狂」した 

そこで、「これが日中全面戦争につながるとは、多くの人は思わなかった」という文脈にかかわって、もう一つ、忘れてはならない論点を提起しておかなくてはなりません。結論から言えば、「日本人民も中国人民と同じく日本軍国主義の犠牲者だ」という言説についての吟味です。この言説は、中国との国交正常化に至る過程で、あるいは戦争に関わる議論の中でも、しばしば、中国の政治家、有意の識者から語られました。もちろん、そこでの真意(善意と言ってもいいかもしれません)を疑うわけではありません。日本国民への思いが込められたものだと思います。しかし、実際はと言えば、日本国民あげて中国との戦争に「熱狂」したのです。「{ぼう し よう ちょう}暴支膺懲」(横暴な支那=中国を懲らしめよ)に酔いしれたのです。 

筆者は放送メディアを退職後10年余りにわたって大学の教壇に立って「メディア論」を講じました。その際、あらためて「戦時中」の新聞、放送(ラジオ)、雑誌などのメディアを読み返し、聴き返して、対中国の戦争における国民の「熱狂」ぶりに背筋の凍る思いがしたものです。「日本人民もまた日本軍国主義の犠牲者だ」という言説のはらむ問題性に突き当たらざるを得ないのです。そして、仮に、その時代に生きていたとするならこの「熱狂」から自由でいられただろうかと考えさせられたのでした。 

当時の新聞紙面を開くだけでも、日本国民がいかに中国への侵略に「浮かれた」かが見てれます。皮肉なことに、「満州事変」当時から新聞の「戦果」速報競争に拍車がかかり、いかに「中国をやっつけた」かを、各紙が競って紙面化し、国民はそれを争うように買い求めました。もちろん「勝った、勝った」の提灯行列などもその一例です。そうした中に「百人斬り“超記録”/井106-105野田/両少尉さらに延長戦」(/は行替え)というおぞましいばかりの見出しに、二人が軍刀を突いて並び立つ「百人斬り競争の両少尉」のキャプションが付いた写真が掲載された紙面も残っています。この「百人斬り」については、戦後「虚構性」が指摘されて法廷での争いになった経緯もあります。しかし、細部の真偽はともかく、こうした報道に読者が浮かれた歴史は、否定のしようがありません。   

また、「七・七」の翌年、1938年に「国家総動員法」が公布・施行され総力戦体制へと進むことになります。歴史社会学者の山之内靖氏は当時の社会について「福祉国家は、実のところ戦争国家と等記号によって繋がっているのである」と鋭く指摘しています。総力戦体制では国民の健康の増進や生活の改善なども国家意思として進められ、国民はその「享受者」としてあったのです。日本では戦後になって、一部の軍人や政治家に「騙されていた」といった被害者としての国民という言説が多く語られましたが、今こそ改めて、われわれ日本人がたどった「戦争の歴史」を、具体性をもって振り返り、目を背けることなく正対することが欠かせないと考えます。(注釈ばかりが多くなって恐縮ですが、侵略戦争を「事変」という言葉でごまかして「泥沼」へと突き進んだ問題についてもここでは置かざるをえません) 

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