余計なひと言

2021-07-16 13:40:00


羅斯哲=文

鄒源=イラスト

あの日、私はバスに乗って友人のところへ出掛けた。そばにいくつもの大きな袋を置いて、一目で田舎から来たと分かる若者がいた。彼は車掌さんのそばに寄り掛かって、手に地図を持ち、真剣に見入っていた。突然、彼は申し訳なさそうに車掌さんに尋ねた。「頤和園に行くにはどこで降りたらいいのですか?」。車掌さんはショートカットの娘さんで、ちょうど爪の間の汚れを取っているところだった。彼女は顔を上げて田舎の青年をちらりと見て言った。「乗り間違えてるわ。向かいのバス停で戻るバスに乗りなさい」。この言葉自体には問題はなかったが、最後に余計な言葉を付け加えた。「地図を持っていても分からないなんて、何のために見ているんだか」

すると、そばにいたおじいさんはこれを聞いて居ても立ってもいられなくなり、その若者に言った。「戻る必要はないよ。あと4駅乗ってから904番のバスに乗り換えても行けるよ」。彼がここまでで止めておけば、人助けになり、北京っ子のイメージ回復のためにも良かっただろう。けれど彼は最後にひと言、余計な言葉を付け加えなければ気が済まなかった。「今の若者は全くしつけがなっていないな」

おじいさんのこの言葉は傷つく人も多いのではないかと私は思った。するとやはり、おじいさんのそばにいたお嬢さんが耐え切れずに言った。「おじいさん、しつけが悪いのは少数なのに、あなたのその言い方だとみんながそうみたいじゃない?」。彼女の言葉を聞くとしつけが悪いようにも思えず、おじいさんにきちんと敬語を使っている。しかし、彼女もまた余計なひと言を最後に付け加えないではいられなかった。「あなたのようなお年の人は穏やかそうに見えても、底意地が悪い人が多いわね」

これに、文句をつけない人がいないはずもない。やはり中年のおばさんが口を開いた。「あなたのような小娘が、お年寄りに向かって何という口のきき方をするの? あなたは自分のご両親にもそんなことを言うのかしら」。このおばさんの指摘も素晴らしかった。みんな、これで終わるだろうと思っていたが、そのおばさんは最後の言葉をまだ言い終えていなかった。「あなたみたいなのは、ご両親も手を焼いていらっしゃるわね」。こうして、大騒ぎのうちにバス停に到着した。

バスの扉が開くなり、車掌さんは言った。「みんなもう騒がず、降りる人は早く降りて!」。当然、彼女は最後の余計なひと言を忘れずに付け加えた。「騒ぐんなら、降りてから騒いでよ。うるさいったらありゃしない!」

るさいって? 彼女だけじゃなく、乗客全員がうるさいと思っているのだ。ずっと黙っていたあの田舎の若者が突然大声を上げた。「皆さん、騒がないでください。全て私が地図をしっかり見なかったのが悪いのです。すいません!」

彼がそう言うのを聞くと、車内の人はもはや騒ぎ立てるのは申し訳ないと思った。しかし、その田舎の青年も「余計なひと言」を言うのを忘れてはいなかった。「北京人がこんなに理不尽だって分かっていたら、来なかったのに」

この後どうなったかって?

私はその日、やるはずだったこともできず、みんなまず公安局に連れていかれ、事情聴取されて、そのあと病院の外科で頭の傷を手当てしてもらった。私の頭の傷は、混戦の中で車掌の娘さんに切符入れの箱をぶつけられてできたものだ。私はけんかを止めようとしたのだが、余計なひと言を言ってしまったのだ。「結局、車掌さんの言葉がまずかっただけでしょう。彼女はまだ子どもで無知なんだから、あれこれ言っても無駄ですよ」

 

翻訳にあたって

北京のバスは安くて便利だったので、私も北京滞在中、バスによく乗った。安くて便利という以外にも、通りの風景を見ていると全く退屈しないし、乗客同士の会話とか、車掌さんとのやり取りとかも面白いものがあった。昔は運転手しかいないワンマンカー以外は、乗った時に車掌さんに目的地を告げて料金を支払うシステムだったため、車掌さんに目的地を告げても、発音が悪いと何度言っても分かってもらえないこともあり、難しい発音の目的地の時には緊張したものだ。車掌さんにもさまざまな人がいて、親切に目的地までのバスを教えてくれる人もいれば、ふてくされたような、やる気が全く感じられない人もいて、この文章のようなことも確かにあり得るなあと思う。こうした人間くさいエピソードこそ、まさに中国を感じさせてくれるものだ。(福井ゆり子)

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